イノセンス After The Long Goodbye

イノセンス After The Long Goodbye (デュアル文庫)

イノセンス After The Long Goodbye (デュアル文庫)


イノセンス」のノベライズ版。
スティーブン・セガールと同じ声でしゃべるバトーを主人公とした、ハードボイルド小説。
セガールの映画のあとで攻殻SACを見ると何の違和感もない。


作家が後書きに書いてあるように、ハードボイルドを洒落以外で書くのには、もはや、サイバーパンクの殻をかぶってみるだけじゃダメで、さらに、ノベライズという体裁をとる必要があるのかなー。


映画「イノセンス」の前日譚という体裁をとっていて、一部重なるエピソードや設定があるものの、基本的には「イノセンス」とは全く別のエピソードだ。
意外なことに「イノセンス」という言葉に拘ったノベライズとなっており、バトーが延々とサイボーグである自分には無垢な部分がないと言いつつ、いなくなった犬を探して徘徊するるハナシ。
映画は本当のところ「攻殻機動隊2」で、イノセンスというタイトルに絡む部分は全くないので、そのあたりの違いが面白い。


バトーが存在しない息子との夢を見る冒頭のシーンは泣けます。


先日読んだ「ディアスポラ」は、西暦30世紀にソフトウェアとして生まれた人間たちが、上位の宇宙へと旅立つハナシなのですが、すでにバトーとか少佐って2030年の舞台設定で本体はソフトウェアなんだよな。
ふだんアニメーションといて見ていると、体を持って歩き回っていてるからつい勘違いしそうになるし、無から自我を生み出す「ディアスポラ」と元になったゴーストが存在する「攻殻」では違うといえば違うんだけど、本書を読むと「攻殻」から「ディアスポラ」に至るには物理的には単に体を捨てれば終わりのよーな気がする。


犬に執着するバトーをみると、その一段階を飛ぶのがやっぱり辛いのかなー。
でも意識を失って、自分が「初期化」されたり再ロードされたりするのと、自分のコピーやバックアップが五百も千もあるのと、どう違うというんだろう。
むしろ、常に電脳とつながっているのに、体に束縛されてる方がおかしい気もする。