ふわふわ時間と世界と人々

けいおんのシリアスを否定するなら、もうちょい具体例を挙げよう

嫌いな作品がなぜ嫌いなのか。ちゃんと考察するのは難しい。嫌いな理由を言語化するのはもっと難しい。だからネガキャンは、同じものを嫌いな人のグループではすげー勢いで広がるが、その外側に訴えかけることはない。

と、今日は銭湯に浸かりつつ考えた。思えばもう二十年ぐらいオタクをやっているわけで、嫌いな作品もいっぱいあったはずなんだが、今振り返ると中高生の時に嫌いだった作品とかもう思い出せない。……たぶん、「BOYS BE」は嫌いだった。あと「FF」は嫌いだったなあ。なぜ高校生のころFFが嫌いだったかといえば、それがあまりに中二病臭かったからだと思う。「BOYS BE」も、なんか中学生の妄想っぽい所が嫌で堪らなかった。自分がそんな年齢層の一部であることが嫌だったんだと思った。ただ、当時(FF7ぐらいのころ)にFFが嫌いだというのは、おそらく昨今において「テイルズ」とか「ペルソナ」が嫌いだ、と高校生のオタク兄ちゃんが言うのと同じくら致命的な発言であったと思うので、当時の私はおくびにも出さなかったが、当時私はファイナルファンタジーが大嫌いだった。

ただ、当時はまったく理由を考察しなかった。なんか、ある作品がなぜ嫌いなのか、それってすごく不毛な気がして、今に至ってもあまりやったことがない。


という話は置いておいて、「けいおん!」および「けいおん!!」のシリアス部分を私は大好きで、あれが世界観を保っているんだと思うんだ。まあ、そもそも「あずまんが大王」で、にゃもちゃんが合コンに出て、ちよちゃんと神楽が夜の公園で花見をする会ぐらいから、オリジナルのシリアス回は好きなんですけど。

なんとゆうか、「けいおん!!」って現実的な世界観と、萌えアニメの世界観の、ちょうど中間ぐらいで成立してるような気がするんよね。もちろん、全体としては萌えアニメの世界観にあるんだけど、「らきすた」ほどはホンワカした世界に寄っかかっていないし、たとえば「ぱにぽに」ほど形而上的ではない。「ハルヒ」やkey作品のアニメ化ほどファンタジー然としていない、全体としてギリギリ現実の世界に落とし込めそうな範囲を保っているのが「けいおん!!」の魅力だと思うわけです。

たとえば、唯のキャラ付け。唯って、pixivとかで言われるように一方においてありえないようなバカキャラなんだけど、あの「あり得ない天才性」とか、たまーに見せるお姉ちゃんパワーとか、「ムギちゃんは、心も体も温かいよ!」とか。それが、かろうじて「ああ、こういう子、ひょっとしたら実在するかも」と思わせるバランサーになってるような気がするんだ。澪とかもそうで、全体的におよそありえないぐらい萌えキャラの記号を備えているのに、アニメでは基本的に萌え要素には触れないようにしてる所とか、あのしまむらにありそうなファッションセンスとか、そういう所でバランスを取っているんだと思うわけですよ。

アルバイトで失敗して泣くムギとかもそうで、例えば「あずまんが大王」のちよちゃんとか、ああして失敗しては泣かないワケですよ。ちよちゃんバイトしてるけど、失敗してなくて、その完璧性をちゃんと保っちゃうわけです。他もそうですよね。天才のちよちゃんはもちろん、「ぱにぽに」の南条も、「らきすた」のみゆきさんも、基本的にお嬢様というキャラクターは「何か自分ができないかもしれないことに挑戦する」アクションはしないんですよ。「自分にできないことに挑戦する」のはお嬢様キャラの定型じゃないんです。

そんな非実在と実在の中間点ぐらいで、現実に足がつきそうでつかない「ふわふわ時間」を過ごしていく、どうにも落ち着かないキャラクターの描写を積み重ねているのが、「けいおん!!」の魅力だと思うわけなんですけど、そんなことをいっても、もっと萌えに寄せたい人には届かないんだろーなー。仕方ないんだろーなー。