けいおん!! 最終話前感想「……いえね、冬になると、訳もなく、哀しくなりません?」

けいおん!!」が終わります。

ジュブナイル」というのは、自分の居場所を見つけるまでの物語なのでないか。自分のあるべき場所を探し求め、それを得て、それからどうするのか。という一連の段階は、マズローの社会的欲求、社会参画の欲求を満たし、そこから自我を確立し、自己実現へと向かう物語なのだ。

けいおん!!ヤンキー君とメガネちゃんも、サクラ大戦5も鳩プリも、つまりはそういうことだ。自らが所属するべき社会集団の中での位置を見つけ出し、そこから自分の道を見つけ出すまでの物語こそが、青少年の成長物語なのでないか。つまり、未成熟な子ども時代を離れ、社会の一員になるまでの道程を示すことが、物語の骨子ではないか。

そのような社会構成員の一員になるまでの物語が、青少年の成長物語の基調にあり、それに対する形で、『終わらない旅(?終わらない青春)を続けるもの』という人物類型があるんでなかろーか。車寅次郎とか、ハーロックとか、エマノンとか、キノとか。

かつて、ファンタジーブームからエヴァのころにかけて、我々はそうした成長物語としての「ジュブナイル」を否定し、永遠の子どもであることを夢見た。社会の構成員でなく、はぐれ者の冒険者になることを是とした。成熟を拒否し、永遠の子どもであることを選んだ。学校という鳥籠を抜け出し、旅にでることを選んだ。膝を抱えて、目を閉じて、自分を見つめることが青少年の物語の骨子となった。これが「セカイ系」である。

しかしだがしかし、萌えアニメ、学園モノ、という形骸をまといつつ、再び物語は「社会の構成の一部になること」いいかえると、「誰かに必要とされる人物になること」に回帰してきたよーな気がする。

薄汚い社会であっても、人間は一人では生きていられない、その一部分として自分の居場所を見つけ出すことこそが、レゾンデートルなのだ。たぶん。平凡な世界の平凡な一隅で、限られた時間を過ごして生きていくのが人間であり、その限られた平凡きわまりない世界観こそが貴重で、大切なものなのだ。それが「ジュブナイル」なのだ。

よーするに、「けいおん!」ないし「けいおん!!」っていうのは、社会のなかに自分の居場所を見つける物語なんじゃないかな、みたいなことを思ったわけだ。「けいおん!」では、「何かしなくちゃいけないと思いながら、何もできずにいた女の子が自分の居場所を見つけるまでの物語」であり、「けいおん!!」は前作で見つけた各の居場所から、前後左右を俯瞰するという作品だった。だから「けいおん!!」では学校外のおばあちゃんとか、町内会とか付き合いが出てきたり、修学旅行行ったり、クラスメートが多勢出てきたり、夏フェスだったり、学校の先輩後輩の話をクローズアップしたんじゃないかな。まあ概ね、原作再現なんだけどさ。

こうした展開のミッシングリンクは、「けいおん!」の番外編のライブ話、ムギのバイト話だったと思うのだ。あそこが「社会の中に居場所を見つけた女の子が自分の立ち位置から前後左右を見回す話」だったと思うのだわな。この「けいおん!!」はその後続物語として造られているのだ。

あと、たとえば、十年前にでてきて、同じような高校生女子の三年間を追い掛けた漫画「あずまんが大王」は、同じように入学直後から始まって、卒業で終わるのだけれど、「けいおん!」のような社会とのつながりはない。「あずまんが大王」では、六人と先生たちは心地よい時間を過ごしていくけれども、そこは彼女たちが高校卒業後に向かっていく社会とのつながりは描かれていないし、彼女たちの共通の場というのも学校しかでてこない。だから、あの六人って、ちよちゃんが留学したら、共通のベクトルもないわけで、あっさりと友達づきあいが中断しちゃうんじゃないか、と思うんだけどな。まあ、それはそれとして。

かつて部屋の片隅で、膝を抱えて夢想していたセカイ系を越えた今のオタクな世界観は、再び自我と世界の間に社会というものを認識したのかな、と「けいおん!!」見ていて思った。

とかいいつつ、「けいおん!!」は「社会における自分の居場所を見つける物語」だと思ったんだけど、実は「ハヤテのごとく!」も、「ひぐらしのなく頃に」も、もろにそうだよね。むむう。

ともあれ、なんだろう。

あの卒業式の後の所在ない空気。どこか浮かれたまま、それでも学校を去りがたいあの空気。……いえね、冬になると、訳もなく、哀しくなりません?