『全ての人の魂の戦い 〜 そして、世界は続いていく』(ハートキャッチプリキュア通年感想)

「全ての人の魂のために、私は戦い続けるっ!」

終わりました。いやあ、きたよ。拳パンチだよ。たぶん、最初に「おしりパンチ」から始めたときには、ここまで考えてなかったんだろうけど、途中のどっかから「最後は拳パンチで」という思いがもたげてたんだろうなあ。卵の殻みたいなのがパリパリっと割れて、中からムゲンシルエットが登場したのは実に真聖ラーゼフォンみたいでした。きっと平行世界のすべてのプリキュアの存在を一つに集約して顕現したのがあの姿なのでしょう。事象の地平面の具現化です。すべての可能性を一身にて現し、すべての人の愛を具現化した姿なのですよ。

『笑っちゃうよね? たった十四歳の美少女が世界を救っちゃうなんて』

がAパートなのに、Bパートでそれぞれが、それぞれの未来の話を始めるのが、すごく良かった。

『わたしたちは半年前、プリキュアという超能力者集団で、なんか町の人たちの心を救ったり、世界を救ったりしました。それから半年たって、気がついたら私たちにはまだまだ長い人生が待ちかまえていたのです』

そう、若干十四歳で世界を救っても、それが終わりじゃないんですよ。その先には幾多の人たちが絶望したり道に迷ったりする世界が続いているのです。そこには全部を解決する奇跡の力も、誰もが分かり合える無限の愛もありません。それでもたぶん『ハート、ピカピカ磨いていけば、暗闇も照らしてくれる光になる』のです。こうした戦いの日々は、一年や二年やそこらで、つぼみが最後に言い残したように、この世界の人々のなかから消えていくように、わたしをふくめて大半の視聴者にとっても、過去の一部として消えていくのでしょう。大きなお友達からも、小さなお友達からも。やがて戦いの記憶は薄れ、そんなことがあったことさえ忘れさられていくのでしょう。それでも妖精がいて、クモさんがいて、世界のどこかにプリキュアがいる日常は続いていき、ハートは脈々と受け継がれて行く。それが、妖精とも別れず、つぼみが転校したりもしない、あの日々の続きが継続していくことを示す、最終回の長い日常パートだと思います。

ストーリーはかつてたった一人で戦ったゆりさんの父と妹に対する敗北に始まって、ゆりさんの家族との別離と将来への思いで終わり、「うざいクラスメート」えりかとの出会いに始まって「大親友」えりかとの日常に終わり、「変わりたかった」つぼみに始まって「ゆっくりと変わっていく」つぼみに終わった一年でした。……いや、なんかサンシャインはストーリー展開上は別にいなくても良かったんじゃないかと思ってしまって、それが払拭されないまま最後まできた感じはします。マリンvsクモさんの戦いの説得力に比べて、サンシャインvsコブラ編は説得力弱かったんじゃないかと思うし。たぶん、まあつぼみに対する対比としてのキャラだと思うんだけど。

いやー、多種多様な悪いところがあるのは分かるんです。ゆりさんと月影家のあまりの不憫さ。あえて「魔法のように全ての人が幸せになれる方法」の誘惑に飛びついた博士が悪い、たった一人で世界を救えると思って孤独に戦ったゆりさんが悪い、とそういっちゃうのは簡単ですが、作中の不幸を一身に受けたその姿はそれにしても不憫です。そのゆりさんとつぼみの会話の薄さ。関係性の乏しさ。

「憧れというのは、理解から最も遠い感情だよ」

といったのは、某ブリーチの三下ラスボスさんがまだかっこよかった頃いった言葉ですが、一面真実だと思います。つぼみとゆりの関係を、ちゃんと書いておかなかったから、最後の最後まで「憧れ」の関係でしかなかった。最終番にいたっても、つぼみはゆりにとって、肩を組んで一緒に戦う仲間ではなく、憬れる、期待に応えるという関連にまでしかなれなかった。ゆりさんの孤独を支える相手はももねえぐらいしかいなかったわけです。そのももねえも文化祭の「チラ」以来、全然ゆりさんの孤独を支えやしないし。復活してたときに、なんか一言ぐらいあってもよかったんじゃないかと思いますぜ。此の辺は、つぼみを主人公にした以上は仕方ないのかもですけど、残念な流れでした。

それでも面白かったのです。ここ3話、いや、4話、いやいや、もっともっと前から、このシリーズは期待を大きく上回って来ました。なに、懐の小さなこといってるんですか。つぼみが自分の影に勝利したときから、ゆりさんが自分の戦う力を取り戻したときから、あの文化祭のライブから、いつきが加わって過ごした夏休みから、いえいえ、えりかが部活を立派に支えた演劇部との対決から、なみなみや番くんとの出阿いの日々から、いえ、もっと前、第四話で二人が友達になったときから、こうしてストーリーが終わるのはもう決まっていたのです。

数々の謎は残りました。デューンさんは何をそんなに憎まれてきたのでしょう。そもそも、なんのために地球を砂漠化しようとしていたのでしょう。三幹部はなぜ、幹部になったのでしょう。そら、わかりませんがな。でも、そんなもんじゃないですか。わからなくても、その相手にどう接するのか。その時に、なにを価値判断の基準にするべきなのか。例え正論であっても、屈してはならないときはいつか。

「そうかもしれません。でもっ!」

そう。相手の言説は正しいのかも知れない。自分や、自分が擁護する相手は間違っているのかも知れない。
それでも、そのハートをキャッチしたのなら、ちゃんと投げ合わなきゃいけません。異邦人同士であっても、ハートをぶつけあい、そこに新しい答えが見つかる。つぼみにあって、他の誰にもなかったのは、どんなに不利な論戦であっても、自分が正しいと思ったことなら、その理屈を相手に伝えるべきなのです。そして、その一歩を進ませたのは、「言葉にしなくちゃつたわらないよ」という四話の一言だった。まあ、最後「喰らえ、この愛」と、肉体言語でしたけど。それが、まあ、なんだ。この一年の結論でないですかね。