デスノート Light up the NEW world 「フィクションは終わり現実が始まる」

  • 前提

これは「デスノート Light up the NEW worldはすごく面白かった」という趣旨の感想です。ネタバレもします。あと、話の読み方について、自分の感性で書いてるので、その辺合わない場合はごめんなさい。

 

 

ちょっと前に「大きな玉ねぎの下で」の歌詞は今では通じない。という話があった。今ではそりゃ、一本LINEを入れればいいよね、っていう話になるよね。でも、「大きな玉ねぎの下で」を聞いて「一本LINEを入れればいいのにね」っていうのは、あの歌を聞いたことになるのかな。というと違うよね。

 

「この歌の世界には携帯電話はなくて、手紙を出したらそれっきり、もうそれ以外の連絡方法は何もない。その状態で、相手のことを信じたくて、信じきれなくて、不安だったり、期待したり、でもそれも裏切られたように感じて、じっと武道館の屋根を見る」

 

その物語の前提を受け入れることは、今の自分が持っている価値観を一旦棚に上げて、作中の世界に没入したうえで、もう一度自分の価値観で受け入れる、というような比較的複雑な行為が必要になる。

 

これは比較的難しいんだと想像する。大河ドラマですら「現代の日本人の感性の沿った形の解釈」が優先され、当時の人物たちの思いもよらないような「世界平和」「万人平等」みたいな概念を前提として描写されがちなのは「作中の登場人物の思考の枠組みが自分とは異なっていること」を受け入れることが難しい行為だからなのだろう。(直虎は割と頑張ってると思う)

 

さて、「デスノート」については、当時「金田一少年の事件簿」があり「名探偵コナン」があったことは前提として受け入れる必要があると思う。当時、「天才高校生探偵のみが賢く、大人たちが翻弄されている課題をただ一人、解決できる人間である」という物語は多くあった。

 

だから「デスノート」もそういう世界として構成されている。夜神月とLは天才であり、警察のキラ対策班はそれに二段階ぐらい落ち、普通の警察はさらにその一段したで、庶民はそれよりさらに下の存在である。というような影響力に関するヒエラルキーが厳然と存在する世界である。

それは視聴者の世界観とは相容れないかもしれない。でも、それがこの世界の枠組みである。この物語を楽しむためには、まずはそれを認めなければならない。

 

  • 物語の類型

デスノート」がものすごく飲み込みづらい物語であるのは、ここから先が原因である。それがお話としてのとっかかり、魅力になってる部分はあるので、棘がある。といったほうがいいのかもしれない。

 

ドラえもん、あるいはのび太くんの物語としての類型。おそらくもっともっと前に遡る物語類型として「自分の身に余るものを手に入れてしまった男がそれによって自滅する」という物語がある。

 

デスノートは一見してこの類型のストーリーである。月は最初から「自分の身の程を知らず、道具の超越性を自分自身のものと混同して暴走して破滅する」キャラクターとして物語に登場する。

つまり、愚者であり、自分が愚者であることを知らないタイプの愚者である。

(こういう「傍目から見るとどう考えても愚者なのに、自分ではそうと気づいていない」という役所に、藤原竜也宮野真守はすごくよくフィットしてて良かったと思う)

 

それを、前述の「名探偵物語の天才」というスタンスで物語世界に配置したのが「デスノート」の特異性である。あらかじめ読者にとって「愚者」とわかっている人物が、世界で最高の知能である、という世界観で進む物語が「デスノート」という物語の歪さである。

 

  • 歪さの解釈

ドラマ版「デスノート」はこの構造をわかりやすく再構成した。つまり「身の程にすぎた道具の力を自分の力と混同して、暴走する主人公」を「名探偵高校生がいなくなった現代」に再構成するために、平凡な高校生にしたのだ。

 

このため、「デスノート」のもつストーリーは明快になり、狂気に落ちる主人公はよりストレートに伝わるようになった。反面、原作の持つ歪さが醸し出す味わいは失われてしまった。

 

・Light up the NEW world

 

そして、「Light up the NEW world」である。

 この映画の製作陣は、前作「映画デスノート」の枠組みと歪さを、鑑賞者も理解しているものである、という前提でこの映画を作っている。

そして、過去を反省している。

 

徹頭徹尾、「デスノート」が「大したことのないアイテム」として扱われるのはその証左であろう。世界の人々は愚かで、拳銃に劣るような力しかなく、爆弾一個ほどのテロも起こせないような馬鹿げたノートを、大仰に奪い合う。

本物のテロリストが繁華街で数十人、百人を超える人間を銃殺する今の世の中で、一人一人ノートにちまちまと名前を書く姿は滑稽であり、愚かしい。

 

この映画はそれを「馬鹿げたことだ」として描いている。

夜神月の考えは「馬鹿げたこと」であり、その後継者を名乗るものたちは夜神月より一段落ちる知性をもったうえで、さらに愚かしい考えに囚われたものたち、破滅するべくして破滅するものたちである。

 

前の映画「デスノート」はおそらく、一部歪さに惑わされた視聴者を産んだのかもしれない思う。夜神月の思想は正しく、彼を殺すのはよくないことだ、と思った視聴者はひょっとしたらいたのかもしれない。

 

だから、続編であるこの話は一切「デスノート」を肯定しない。

道具のしての良さ、としても、その道義上の良さとしても。

 

この物語は映画「デスノート」にケリをつける物語であり、作中でも夜神月の残滓とLの残滓は対消滅的に消え去り、「デスノート」自体の神話性もたんなる銃火器に鎮圧されることで、ほぼ失われる。

 

それは、僕らの生きている現実に近い世界で、たぶん、「デスノート」という歪このうえない世界は消えて、平凡な犯罪組織と、平凡な刑事組織と、平凡な生活の世界が、ここから始まる。

 

(主要登場人物たちの「本名」が平凡この上ない名前だったのも、こうした「英雄たちの去った後の世界」感を出している)

 

この「デスノート Light up the NEW world 」は素晴らしい映画だった。

そうして「デスノート」の持っていた二つの歪さは解消される。「天才高校生」は永遠に失われ、「デスノート」は現実世界においてたいした優越性をもつ道具ではない。

 

伝説時代が終わり、残された世界に、天才たちを失った凡人の物語が始まる。

これは「デスノート」にケリをつける映画として、これ以上はない結末だと思う。