こんな話だと思っていた「ドラゴンクエスト ユアストーリー」

山崎貴映画だというから、てっきりこんな話だと思っていたら全然そんなことなかった。

 

1992年の日本。

中学1年生の倉場瑠夏は誕生日祝いに父親からSFCとゲームソフト「ドラゴンクエスト5」を受け取った。

あまり興味なさそうにソフトを差し込み、電源を入れる瑠夏。

 

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瑠夏の父は工事現場で働くブルーカラーの男だった。

粗野で豪快な父のことを、現代っ子の瑠夏はそんなに好きではなかった。

そして瑠夏はゲームがあまり好きではなかった。どちらかといえば、幼馴染の白子のことが気になって生活を送っていた。

 

だがそれから数ヶ月後、ゲームを進める瑠夏はその途中、父が現場の事故で死んだことを伝えられる。

続けざまに、母は間男の下間と出て行った。

たった一人残った瑠夏はそのまま残っていれば良かったのに、家を飛び出してしまう。

 

数年後、瑠夏は日雇いの労働者として働いていた。

バブル崩壊後の社会で若い労働者の働き口はなく、過酷な条件での労働を強いられていた。

ある日のこと、職場の同僚、辺理が脱走を持ちかける。

仕事現場に限界を感じていた瑠夏はその誘いにのり、職場をバックレる。

 

しかし、彼らに先の展望があったわけではなかった。

浮浪者として繁華街で倒れこむ二人。悪臭に誰も近寄らない。

そこに二人に手を差し伸べる女の子がいた。

 

彼女は更母花咲といい、近所で工務店を経営する経営者の娘だった。

その父親、流土は二人の浮浪者を受け入れ自分の会社で働かせ始める。

 

そして数年の時が流れた。

瑠夏と辺理の二人は流土から仕事を任される会社員になっていた。

工務店のなかでは、彼ら二人のどちらかが花咲を嫁にとって、この工務店の跡取りになると噂されていた。

 

彼らは大きな仕事を任され、それに成功する。

繁華街で祝杯をあげて、帰路につく二人。

そこに女性の悲鳴が聞こえる。

 

瑠夏が悲鳴の方によっていくと、幼馴染の白子が男に殴られていた。

止める辺理を振り切って、白子を助ける瑠夏。

白子は一家が離散して、キャバ嬢になっていたが、膨大な借金をさせられて、無理やり働かされていたのだ。

 

瑠夏は白子を連れて帰るが、流土はいい顔はしない。

「君はこの会社を継ぐ人間で、花咲の婿にしようと思っていたんだぞ!そんなあやしい女を連れているなんて!」

その話をきいた白子は逃げ出そうとするが、流土はそれを止める。

「この人は私の妻になる人です」

 

こうして、白子と瑠夏は夫婦となった。

流土の会社は辺理が継いだが、瑠夏はその会社で仕事を続ける。

子供が生まれ、幸せな家庭が作られる。

2005年、瑠夏は26才になっていた。

 

それから、10年。2015年。

瑠夏の子供達は十才になり、36歳になった瑠夏は会社員として成功し、安定した生活を送っていたが、そこに幼い頃に彼を捨てて家を去った母が現れる。

 

最初母を受け入れることを嫌がった瑠夏だったが、「家族はなにより大事」という子供たちのことばに動かされ、母を受け入れる。

 

そして2019年。

瑠夏は中学生になった子供たちにニンテンドースイッチドラクエ5を誕生日プレゼントに送るのだった。

 

あの日、瑠夏が中断してしまったゲームの先に進む子供達のプレイを後ろで見守る瑠夏と白子。

 

ゲームの中で繰り広げられる、三世代の物語。それはまるで、あなたの人生の物語

 

 

みたいな話だと思っていたので、ドラゴンクエスト ユアストーリーは「おっ、すごい、ちゃんとドラクエだ!しかもあまりユアストーリーじゃない!」みたいな驚きがあり、良かったと思ったのでした。

「天気の子」感想というか所感

天気の子、見てきました。

超よかったです。ネタバレを踏まないように早めに見に来て良かった。

そして、これまで新海誠作品を見てきて本当に良かった。

 

完全に「新海誠の男」目線になってる……そうだよ、お前はそれでいいんだよ……カルピス氷で割ってくれてありがとうな。昔はいつも原液だったもんな……「君の名は。」の時は書いてあるとおりに水で割ってくれたけど、あれはちょっと薄かったからな。

 

大前提は書いたので、細いところに入っていきまますが、本作はお話の展開とキャラクターの感情の移り変わり、サブストーリーの展開がぶつ切りで唐突な点があると思いました。

よくできた「流れるような」脚本なら、ストーリーが進んでいくことと、キャラクターの気持ちが変わっていくことを同期をとって進めていくんだけども、どう新海誠はそういうのがあまり上手くなくって、ストーリーがある一点を越えると急にキャラクターの感情が切り替わっていて、過程があまり描写されていない。 

 

(以下ネタバレが多いです)


君の名は。」で瀧くんが奥寺先輩から「別の子が好きでしょ」って言われるまで、どう考えても奥寺先輩の方が三葉より好きだっただろ、お前、みたいな感じ。 

 

(以下ネタバレが多いです)


今回、大きく 
・主人公上京、ホームレスになる。 
・陽菜と出会う。 
・おっさんの家に転がり込んでライター助手になる。 
・陽菜を助ける。 
・お天気屋を始める。 
・お天気屋をやめる。 
・追われる身になる。 
・ラブホに転がり込む 
・警察から逃げる 
・代々木の廃ビルになぜかみんな集まる 
・一件落着 
・後日談 

みたいな話の流れなんだけども、重要な小道具として存在する拳銃の扱いとか、ライター助手になったこっとか、お天気屋をやったことが、後段に繋がっていないことが多い。 


おっさんが転がり込んできた主人公の荷物から拳銃を見つけてしまうとかさあ。そうでないと警察が踏み込んできた時におっさんが主人公を追い出す理由が非常に弱くて、単に薄情な人間だから、みたいなおっさんの弱さを描くエピソードになってるやん。 

とか、ライター業をしていたからラブホに転がり込む時に役に立ったとか、あの前半での調査で主人公に天気の巫女と人柱の話がインプットされている、ってなってなくて、一応聞いてるけどその後すっかり忘れてるから、いざ人柱になって云々が「主人公が、ヒロインから、他の人から取材で聞いた」という又聞きの話になっちゃうのが残念。 

このあたり、「君の名は。」のときは主人公の入れ替わりを使うことで、当事者であるおばあちゃんから主人公本人が根底設定を聞く、ということで解決できていて、とてもスマートでした。

一生懸命にお天気屋で活動していて、助けた相手がいた、というのが特にストーリーで役立ってない。 

あそこで助けた人、例えばバザー主催のおじいさんが警察から追われてるときに「私の子供です」みたいなことを言って助けてくれる、とか、六本木ヒルズのサラリーマンの人が「こっそりビルに匿ってくれる」みたいな話はあって然るべきじゃないすか。 

社会からのリアクションをだすことで、最初のホームレスのときと同じような場面でも、これまで東京で生活していたことで変わったんだ、という話になるわけじゃないですか。

 

君の名は。」だと、三葉が父親から認められる場面がありますよね。ああいう、主人公が映画の内部でおこなった経験や成長によって、それを作中の人間から認められる、というのは、「天気の子」だと本当になくって、大人たちは終始子供達の話を内容どころか、重要性も理解できてない。として書かれてしまっている。

 

それに、「大勢が助けているから」子供が警察から逃げ回れる、ならなんとか納得感あるけど、本当に警察は個人のとっさの動きだけで翻弄されてるので、ひたすら間抜けになっちゃう。あの「何回似たようなシチュエーションで逃げられるんだよ!」っていう展開は本当にびっくりしました。もうちょっとなんかあるだろう。ふつう。


その辺、つまり「主人公たちが世界に対して活動をしたことで、世界からなんらかのリアクションがある」という展開がないから「世界なんてどうなってもいいからヒロインを助けたい」というセカイ系の話になっちゃうんやねんな! 

 

基本的にやっぱり、新海誠という人は、人間関係の不安定さや脆さを大前提にしていて、だから「社会で広がる人間の絆」みたいな話は全く信じてないんだなあ。今回、珍しくお天気屋をやって、主人公たちの活動が社会に対して広く「いいことをした」話になっていたと思うのです。

だから例えば、似たようなストーリーのものとしてゲーム「ペルソナ5」がありますが、あれも「主人公たちが良かれと思って社会に関与する仕事をする」「それが社会からしっぺ返しを食らって落ち込む」という展開ですが、ペルソナ5では主人公たちは社会からしっぺ返しを食らった時に大いに落ち込みます。

そして、社会から再度認知されていくことで力を取り戻していく、というストーリーですが、「天気の子」では主人公たちは最初から社会を頼りにしてないので、社会から「もう一度晴れて欲しい」というような要望があがっていても、それは耳に届いてませんし、ほとんど気にもかけていません。

子供達は社会からの支援するよ、という声に耳をかしませんし、社会に助けて欲しいという発言をしたりもしません。自分は社会に対して何らかの仕事をして、例えばお礼や報酬をもらったりするかもしれないし、何か社会をそれによって変えることがあるかもしれない。けれども、個人は社会を信じてはいない。個人が困ったときに社会は「何の関心も払ってくれないし、何も助けてはくれない」そういう観念がキャラクターたちの行動原理の根底にあります。だから、自分で、何かをしなくちゃいけない。

(登場人物が他人を説得しないのが本作の特徴だと思います。というか、基本的に新海誠作品では人間は他人を説得できません。「君の名は。」の三葉の父の下りが特例だと思います。あれも、まあ他人というか家族関係において、父が自分自身を見返した、という流れでもイベントだし)

小さな関係性ということで、かろうじて家族、というのは描けるのだけども、複数の家族が合わさって大家族になる、という話になるともう無理。そんな絆の存在は信じられないのです。だから、主人公はおっさんの家族であることをやめて、陽奈の家族になることを決めます。

本当なら、二つの家族が主人公によって統合されて、一つの集まりとして動く、という段取りにできたら、映画終わった後の「えっ、このあいだ三年間、姉弟どうやって生計を立ててきたの」みたいな感情も生まれなかったんだろうけど、そういうのは無理なのです。

 

個人間の関係は不安定で、だからこそ永続性を夢見る存在としてあるけれども、多数の人間同士の関係性って共同幻想でしかないよね。そういう「俺とヒロインはいるけど、ぶっちゃけ世界は俺たちとは関係ない」というのは新海誠イズムなので、まあ、この味はいいね、と個人的には思います。面白かったです。

Mac miniの移行時に詰まった所メモ

Bluetoothマウス

 キーボードでオプションとエンターでスポットライト検索がでるので、そこで「マウス」と打つと、Bluetoothマウスを再検索してくれる。マウス側のBluetooth認識ボタンを長押ししてMac miniに認識させる。移行のときは新旧二台にマウスを接続したいけどBluetoothマウス二個はもってねえよ。なんでmacOSはマウス前提なんだ。キーボードもBluetoothだったら詰んでた

移行アシスタント

 移行元のファイルを全部持って行こうと数え上げするので、移行アシスタント始める前に容量を減らしておく。移行対象ファイルの数え上げだけでも結構待つので、移行対象検索で寝て、出勤前に移行開始を押す。

Ethernet

 素直に新しいMac mini側で移行アシスタント画面に遷移すると、ネットワークが無線になってるので、無線は使わない、としてEthernetで移行アシスタントの画面にくること。

 新旧の接続は面倒だったらストレートケーブルを直つなぎでも繋がる。ハブ噛ませたら逆にうまくいかなかった。

 2011年版Mac miniだったし、100basetなのか、場合通信速度は秒速8メガバイト程度。300ギガ転送で9時間とか、そんな感じ。

vmウェア

 セキュリティ一般でAppStore以外のアプリケーションの動作を許可してやらないと、仮想マシンの起動でvmnonがみつからないとエラーになる。エラーと対応が対応してないのでいやらしい。

ピクセラ station tv Link

  ネットワークか使えているのに、認証サーバー接続でエラーになる。アンインストール手順がピクセラのサイトのマニュアルに書いてあるのでその通りアンインストールする。他のアプリケーションと同じようにアプリケーションから消すだけだとダメ。

IQOSとgloとプルーム・テックの一長一短

三種類の電気タバコを使って見たので、一回整理してみる。

 

  • IQOS

フィリップモリス製。最初に発売された電気式タバコ。

フィルターとタバコ葉詰めた部分でできてる「ヒートスティック」をホルダーについてる電極にぶっさして直接焼いて煙を出す。そういう仕組みなので比較的タバコに近い煙が出る。三種類のなかでは喫煙してる感覚が一番強く、一服の満足感も高い。

この結果、電気タバコの中では葉を焼いた匂い(繊維の多い葉を焼いたときの匂い。たぶん、玉蜀黍を焼いた時の匂いが近い)が副流煙にストレートに出る。従来のタバコの匂いではないけども同じ部屋の中で「これはIQOS吸ってるな」とわかる感じで匂いは強い。

取り回しは非常に悪い。一服ごとに3〜5分程度の充電が必要で、タバコ葉さすスティックの他に充電器を持ち歩かないといけない。このため、重量的にはスマホをもう一個、体積的にはタバコのロング型ハードケース2つを持ち歩く必要がある。「IQOSで喫煙するセット」はカバンとか持ってないと持ち歩けないので、昼食時にふらりと持ち歩くには向かない。

  • glo

ブリティッシュアメリカンタバコ製。

IQOSの今ひとつだった点を改善した感じ。充電池とホルダーが一体になっていて、一回充電が終われば一箱分吸うことができるので、IQOSに比べて取り回しはよくなっている。とはいえ重さはIQOSより少し軽いぐらいでズボンのポケットに入れて持ち歩くのは、携帯電話もう一つ持ち歩くぐらいの感覚でどうにか。

仕組みもタバコ葉を直接焼くのではなく、紙巻の外側から包み焼きというか蒸し焼きのような焼き方になっているため、煙の量は少なくなり、タバコの匂いもだいぶ減っている。部屋で吸っても匂いが残らない感じになった。

IQOSは結構ヤニが電極側にたまるので、定期的に掃除しないと妙なエグ味がでてしまうが、gloはそうでもない(ヤニは多少でる)。

反面、タバコ吸ってる感じはIQOSに比べて減っているし、煙が出る量がIQOSに比べて少ないので吸い方にコツがいる。充電池一体型のホルダーはそれなりに大きく、なんか吸ってる感じがパック牛乳吸ってるみたいでかっこ悪いんよなあ。でもパック牛乳をちゅうちゅう吸い出す感じで吸うと煙が多めにでます。

  • Ploom TECH

JT製。

使い回しがよい。他二製品と違って、タバコを焼かない製品で、電池をエタノールなどが入ったカードリッチに接続して加熱し、低温で水蒸気を出してタバコ葉の入ったカプセルを通して吸う。

この結果、他の製品に比べて電池が小さくて済む。持ち歩く重さはボールペン一本ぐらい。昼休みに胸ポケに納めて歩けるのでちょっと喫煙、というときに持ち歩ける良さがある。

問題点として、タバコの味は他の二製品と比べて少なく、一服の満足感は少ない。最近、メンソール製品では水蒸気自体にメンソール味をつけるようになったので少しは改善されたものの、やっぱりまだ味が少ないなあ、と感じる。

結果として、公式には一箱で通常のタバコと同じだけ吸える、と書いてあるものの、物足りないので、つい吸うペースが早くなってしまう。だいたい2倍以上のペースで吸ってしまう。ぶっちゃけコスパはあまり良くない。

使い回す部品は電池だけで、水蒸気の発生部分から先は全部使い捨てなので、メンテナンスを考える必要がなく、そういう点でも使っていて便利。

 

総じて、使いづらくて重たいが味はいいIQOS、吸い方にコツが必要でバランスはいいglo、とにかく手軽につかえるが味も軽いプルーム・テック。

2018年春アニメ1話みて

おっさんなので本数みるのは辛いです。

 

今期のダークホース。ソシャゲ原作史実競走馬擬人化けも娘百合アイドル少女成長もの、という2010年代の総決算のようなアニメ。しかも、1〜2話時点で明らかに2010年代を総括するのにふさわしい程度に成功している。今の所「面白いワルキューレ・ロマンツェ」か「21世紀に制作されたバトルアスリーテス大運動会」といった塩梅である。

声優の演技、OPやEDの雰囲気も含めて一見して「あー銀英伝を見てるんだな」って感じがするのは成功してると思う。この辺が「タイタニア」とかになかったやつだ。もともと、前の銀英伝は絵が当時からしても、さすがに省力化されすぎていたなあ、って感じがするので、このぐらいでよかったと思う。

  • あまんちゅ

甘い。めっさ甘い。なんだろう。原作漫画だとここまで甘くないのに、アニメになるとARIAにしてもそうだけど、こんな甘くなるのはなんでだろう。原作漫画だと割と頭身が高くてクールな感じなので、ポエムも「大人の女性が内省してる」感じがあるからだろうか。それが情感たっぷりに演じられると、ものすごく甘く感じるんだ。とりあえず、1話は原作で好きだった、てこの「ばっちーん」っていうアイコンタクトが省略されてたのが残念。

  • P5A

だいたい原作どおり。原作P5の不満点(夏休み以降があまり面白くない。ダンジョンが理不尽につまらない上に長い。怪盗のくせに敵を殲滅する進行。とかとか)ばかり記憶の底から蘇ってくるのでよくないP4Gと同じ空気を感じる。P3ぐらいの長さならなんか見られるけど、こんだけ長いと辛そう。できれば大胆不敵に変えて見てほしいけどなあ。

初めてPSOをやった時を思い出すような感じのオンラインゲームもの。ビルドトライのときの「ビルドファイターズの受けたポイントってこの辺で、それを再構成すればいけるよね」みたいな感じで制作されていつつも、でもそれ絶対違ってますから!っていう空回りっぷりが本当に辛かったのですが、今回はその辺抑えたトーンになってますわな。アクエリオンEVOLに対するアクエリオンロゴスにならないことを祈る。

漫画読んでないけど面白いやん!(原作知らないことが作品への注意を喚起しているパターン)若干一話のなかでも話の展開がもたもたしていて、同じことをなんどもいってる気がしたけど、まあ主要キャラクターたちのポリシーとか詳しく説明しなきゃいけないところだし、そういうもんだよね。

  • ハグプリ

「今回は女の子が、仕事に、子育てに輝く、ということを子供に伝えるプリキュアなんだ」

「なるほど、つまり子供は、何が人生の輝きなのか知らない、っていう話なんですね?」

みたいな変換があったようにしか思えないプリキュア。主人公の島村卯月病が今後どのように解決されるのかそしてそのあと一年のシリーズがどう整理されるのか、というあたりが楽しみである。

なんなの、CCさくらはOP/EDにマクロス関係者を連れてこないといけない、みたいな縛りがあるの。というか、いつものCLAMPアニメの2クール目ですが、まあ、いくつになってもいつものCLAMPアニメが見られるのはいいことなんですかね。。。

最近若干マンネリ気味で、最初は「子供に戦わせるのはおかしい」みたいなことを言っていた大人たちも含め「なんか強そうな敵でてきたけど、結局グランクロスしたら倒せるだろ」みたいな軽いトーンになってきたのをもう一度緊張感ある感じに戻して来たのはよかった。

デスノート Light up the NEW world 「フィクションは終わり現実が始まる」

  • 前提

これは「デスノート Light up the NEW worldはすごく面白かった」という趣旨の感想です。ネタバレもします。あと、話の読み方について、自分の感性で書いてるので、その辺合わない場合はごめんなさい。

 

 

ちょっと前に「大きな玉ねぎの下で」の歌詞は今では通じない。という話があった。今ではそりゃ、一本LINEを入れればいいよね、っていう話になるよね。でも、「大きな玉ねぎの下で」を聞いて「一本LINEを入れればいいのにね」っていうのは、あの歌を聞いたことになるのかな。というと違うよね。

 

「この歌の世界には携帯電話はなくて、手紙を出したらそれっきり、もうそれ以外の連絡方法は何もない。その状態で、相手のことを信じたくて、信じきれなくて、不安だったり、期待したり、でもそれも裏切られたように感じて、じっと武道館の屋根を見る」

 

その物語の前提を受け入れることは、今の自分が持っている価値観を一旦棚に上げて、作中の世界に没入したうえで、もう一度自分の価値観で受け入れる、というような比較的複雑な行為が必要になる。

 

これは比較的難しいんだと想像する。大河ドラマですら「現代の日本人の感性の沿った形の解釈」が優先され、当時の人物たちの思いもよらないような「世界平和」「万人平等」みたいな概念を前提として描写されがちなのは「作中の登場人物の思考の枠組みが自分とは異なっていること」を受け入れることが難しい行為だからなのだろう。(直虎は割と頑張ってると思う)

 

さて、「デスノート」については、当時「金田一少年の事件簿」があり「名探偵コナン」があったことは前提として受け入れる必要があると思う。当時、「天才高校生探偵のみが賢く、大人たちが翻弄されている課題をただ一人、解決できる人間である」という物語は多くあった。

 

だから「デスノート」もそういう世界として構成されている。夜神月とLは天才であり、警察のキラ対策班はそれに二段階ぐらい落ち、普通の警察はさらにその一段したで、庶民はそれよりさらに下の存在である。というような影響力に関するヒエラルキーが厳然と存在する世界である。

それは視聴者の世界観とは相容れないかもしれない。でも、それがこの世界の枠組みである。この物語を楽しむためには、まずはそれを認めなければならない。

 

  • 物語の類型

デスノート」がものすごく飲み込みづらい物語であるのは、ここから先が原因である。それがお話としてのとっかかり、魅力になってる部分はあるので、棘がある。といったほうがいいのかもしれない。

 

ドラえもん、あるいはのび太くんの物語としての類型。おそらくもっともっと前に遡る物語類型として「自分の身に余るものを手に入れてしまった男がそれによって自滅する」という物語がある。

 

デスノートは一見してこの類型のストーリーである。月は最初から「自分の身の程を知らず、道具の超越性を自分自身のものと混同して暴走して破滅する」キャラクターとして物語に登場する。

つまり、愚者であり、自分が愚者であることを知らないタイプの愚者である。

(こういう「傍目から見るとどう考えても愚者なのに、自分ではそうと気づいていない」という役所に、藤原竜也宮野真守はすごくよくフィットしてて良かったと思う)

 

それを、前述の「名探偵物語の天才」というスタンスで物語世界に配置したのが「デスノート」の特異性である。あらかじめ読者にとって「愚者」とわかっている人物が、世界で最高の知能である、という世界観で進む物語が「デスノート」という物語の歪さである。

 

  • 歪さの解釈

ドラマ版「デスノート」はこの構造をわかりやすく再構成した。つまり「身の程にすぎた道具の力を自分の力と混同して、暴走する主人公」を「名探偵高校生がいなくなった現代」に再構成するために、平凡な高校生にしたのだ。

 

このため、「デスノート」のもつストーリーは明快になり、狂気に落ちる主人公はよりストレートに伝わるようになった。反面、原作の持つ歪さが醸し出す味わいは失われてしまった。

 

・Light up the NEW world

 

そして、「Light up the NEW world」である。

 この映画の製作陣は、前作「映画デスノート」の枠組みと歪さを、鑑賞者も理解しているものである、という前提でこの映画を作っている。

そして、過去を反省している。

 

徹頭徹尾、「デスノート」が「大したことのないアイテム」として扱われるのはその証左であろう。世界の人々は愚かで、拳銃に劣るような力しかなく、爆弾一個ほどのテロも起こせないような馬鹿げたノートを、大仰に奪い合う。

本物のテロリストが繁華街で数十人、百人を超える人間を銃殺する今の世の中で、一人一人ノートにちまちまと名前を書く姿は滑稽であり、愚かしい。

 

この映画はそれを「馬鹿げたことだ」として描いている。

夜神月の考えは「馬鹿げたこと」であり、その後継者を名乗るものたちは夜神月より一段落ちる知性をもったうえで、さらに愚かしい考えに囚われたものたち、破滅するべくして破滅するものたちである。

 

前の映画「デスノート」はおそらく、一部歪さに惑わされた視聴者を産んだのかもしれない思う。夜神月の思想は正しく、彼を殺すのはよくないことだ、と思った視聴者はひょっとしたらいたのかもしれない。

 

だから、続編であるこの話は一切「デスノート」を肯定しない。

道具のしての良さ、としても、その道義上の良さとしても。

 

この物語は映画「デスノート」にケリをつける物語であり、作中でも夜神月の残滓とLの残滓は対消滅的に消え去り、「デスノート」自体の神話性もたんなる銃火器に鎮圧されることで、ほぼ失われる。

 

それは、僕らの生きている現実に近い世界で、たぶん、「デスノート」という歪このうえない世界は消えて、平凡な犯罪組織と、平凡な刑事組織と、平凡な生活の世界が、ここから始まる。

 

(主要登場人物たちの「本名」が平凡この上ない名前だったのも、こうした「英雄たちの去った後の世界」感を出している)

 

この「デスノート Light up the NEW world 」は素晴らしい映画だった。

そうして「デスノート」の持っていた二つの歪さは解消される。「天才高校生」は永遠に失われ、「デスノート」は現実世界においてたいした優越性をもつ道具ではない。

 

伝説時代が終わり、残された世界に、天才たちを失った凡人の物語が始まる。

これは「デスノート」にケリをつける映画として、これ以上はない結末だと思う。

 

勝手マイベストアニメエピソード

よろずが美しい完全無欠なエンディング、というのが如何にいいのか、ということを自分の脳内に刷り込まれたのが本エピソードとなります。

だって、今まで見た中でも最強に近い感じの悪役でラスボスのガーゴイル様が「さらばだっ」っていうんですよ。その直前のところで、明らかに自分の立脚点を完膚なきまでに否定されて倒された人が、「さらばだっ」ですよ。

毎回見るたびに、なんでガーゴイル様が、あんな能無しのネモ君なんかに負けなきゃいけないんだというか、本当に、そのすぐ油断するところ、一回でいいから直そうよ、ってなるわけです。

しかし、ともあれ、この完全無欠なエンディングに、打ち上げまで付いてくるわけです。全員のその後と、エバーアフター。やはりエンディングには打ち上げが大事です。最終回に打ち上げがあるアニメはいいアニメ。

けいおん!!の二部とかは、どっちかというと間延びした感じがするのですが、第一部はテンポよく物事が進むむことと、比較的「リアル寄り」に寄せているのがたまらなく好きです。

この13話も、初めてのアルバイト挑戦がうまくいかなくて泣くムギ、ですよ。普通ふわふわ日常系の女の子が何事かに挑戦してストレートに失敗しないよ。でもこの話は割とみんな失敗します。サブカル女っぽく一人旅に出て途中で寂しくなって帰って来ちゃう澪とかね。おかしくねーし。

プリキュアは、プリキュアやりながら中学生もやっています。

それって普通のことで、誰もが複数のことを同時に進めて生きているわけです。

まあ、滅多に中学生活をしながら、世界を救ってしまうことはないですが。

来海えりかさんは、一般的な中学生よりも破綻した性格をしていて、この一年間のストーリーが始まる時点では「一緒にいると迷惑な子」なのですが、それがどうにか自分で自分を乗りこなす事が出来てきて、普通に部長としてメンバーを切り盛りしている様子がここで描かれます。

でも、誰もがみんな、そうなれるわけじゃない。強烈な中学生の自我を誰もがうまく扱えるわけじゃない。そうした自分の心が暴れてしまうことと、どう付き合うのか、というのが「ハートキャッチプリキュア」だったと思うわけであります。

だから、アメンボ赤いなアイウエオ!

一人屋上で泣く部長さんはすごい絵になるのであります

「とある」シリーズって全然興味なくって、見てもなかったんですが、飛ばし飛ばしで観ていた再放送のこの話。佐天さんと初春の電話で、佐天さんが泣いて、初春が声をかける場面でこのアニメを最後まで見ようと思いました。

理想と程遠い自分とどう折り合うのか。自分がどんなに理想に届かない存在であっても、それを否定することは自分に関わる人たちの気持ちも否定することである。自分の自負と折り合い、そして先へ進むのだ、いうのが佐天さんというキャラクターとレールガン1期の物語だったと思います。

  • ちはやふる2期 十九首「ゆくへもしらぬ こひのみちかな」

べ、別に女の子が泣く話が好きなわけじゃねえし。男子として理想に追いつけないと心のどこかで思い、諦めながら、止まりながら、それでも一生賭けても運命に抗う。真島太一の土壇場であります。

太一はえりかとか、佐天さんと違って(高校生ですからね)、もう一回諦めているわけで、だからまあ、幼馴染の千早が好きでありながら、なんとなく彼女作っちゃったりするわけで、でも、もう一度頑張ろうと思いながらも悪い意味で大人なので、すぐ諦めちゃうわけです。

そのすぐ諦めてしまう太一の弱さ、というのはこれまで散々出てくるのですが、それが初めて踏みとどまって、戦おう、というのがこの回です。しかし、それでもまだ、戦おうとしても「行方も知らぬ」と言ってしまう。

  • あずまんが大王第19話「あくび名人 / なんだか青春 / 大人の花見 / 子供の花見 / 桜」

にゃも先生がお見合いに行く話。アニメオリジナル回。

このオリジナルエピソード、評判あんまりよくないんですよね。でも自分好きなんです。

あずまんが大王というのは、日常系四コマのおそらく最初の流行を生み出した漫画・アニメでありながら、女子高校生の入学から卒業までを描くというおそらくシリーズ構成上の正解を最初に提示してしまった罪深い作品であります。そのなかで、明解に時間が過ぎていき、それが不可逆であることを示す、このオリジナルエピソードの位置づけは完璧に近いものがあります。

時間経過。それが3か月、6か月、あるいはそれ以上の時間をともに過ごすTVシリーズについているものだと思います。神様で中学生なゆりえ様たちも、自分たちが中学生である時間は限りがあることを自覚しつつ、その限りある春の時間を共にします。

時間経過、そうして、かつて一緒にいた子供たちは大人になり、やがてすれ違うわけですが、その「美しい少年時代」(カッコつき)と大人となってすれ違う時間を描いたことが、ラーゼフォンを記憶に焼き付けています。本当に、あのテレビアニメシリーズは「子供たちの夜」と「ブルーフレンド」だけだといわれます。しかし、そうではないことは「蒼穹幻想曲」「多元幻想曲」が証明してくれます

時間経過、ラブライブ!2期は時間が過ぎていくことを明示的に語っている作品でした。そのなかでも、明確に継承と時間がすぎていくことを登場人物たちが自覚的に扱っていることを示しているのが、この話数でした。

完璧なエンディング。完璧なオープニング。それが宇宙のステルヴィアであります。1話と26話の完璧さ。そこから振り返るべき、全ストーリー。永遠に続く、多数のパターンの未来と過去。