近江大和旅行

近江大和旅行としかいいようのない旅行にいってきた。計画性が必要だ。


一応京都にもいったのだが、初日は本能寺に行って方広寺にいったら時間がなくなった。この計画性のなさが三日間ついてまわる。鴨川の向こうの方が「けいおん!」のオープニングにでてくる辺りのはずだが、正直言ってよくわからない。それにしても本能寺は前にも一度来たことがあるが、二度くるほど見るものがない。一応、前は入らなかった宝物館に入ってみた。


二日目。比叡山坂本経由で比叡山延暦寺に登る。ああ、ここが明智光秀が叡山の焼き討ちのあとで城を任されたことで有名な坂本か、これだけ比叡山に近いと論功行賞の結果というよりも後始末を押しつけた感じだなあ。と思った。とても見切れないので、信長に焼き討ちされて、家光による再建だという根本中堂を中心に二時間程度みてまわる。開運厄除けのお守りをいただく。


大塔宮の遺跡。年に一度は鎌倉宮に立ち寄る身からすると、そこで繋がるのかー。という感慨を懐く。鎌倉宮は市内での初詣の穴場なのである。近江は琵琶湖があるので、おおむね平らだなあ。彦根まで行ってみようかと思ったが、時間がなく、安土までで終わりにする。


旅行の本題のひとつ。安土城を登る。安土城関連の人はみんな「火天の城」の話題をふってくるのがすごかった。「火天の城」についてのパンフレットもくれた。パンフレットに書いてあった安藤忠雄による話だと、現代人に足りなくて信長や安土城建設に携わった戦国の人々にあったのは「覚悟」ではないか。とくに二世政治家に足りないのは「覚悟」だ。と。そうかー、常々私も原作版「ハヤテのごとく!」を見ていて足りないと思っていた「覚悟」がやっぱりポイントなのだなあ。でも信長って二世政治家なんだけどなあ。


登り初めて少しあるくとある武井夕庵の館跡。つーか、登る。としか形容がしようがない。標高差100メートル以上、石段は四百段弱。この城が信長の死後すぐに廃れたのは何よりもまず「上の方まで登るのが大変だったから」ではないかと思った。これ、完全に山城だよ。


天主台跡から琵琶湖方面を望む。戦国時代はまだ干拓が進んで居らず、湖の範囲はもっと城側に広がっていたはずである。信長の焼いた比叡山は四百年の後まで栄え、安土城は立ち寄るものもないまま巨大な石垣と石段の跡だけが残る。と。


唐突に飛鳥。高松塚古墳。飛鳥で学んだことは「みたて」というか、「みなし」というか。こんな山の中の都から天下国家を考えなきゃいけないとしたら、そりゃあ「みなし」たり「みたて」たりして物事を理解しないとやっていけないのかもしれないなあ。信貴山に行こうかと思ったのだけれど、ガイドブックみると松永弾正につながるようなものは何もないらしいので、行ったことがない飛鳥に行ってみることにしたのだった。


天武・持統天皇陵。とはいっても山と看板と鳥居があるだけであるが、飛鳥の遺跡のなかでは比較的わかりやすい。


亀石。見るとがっかりする。彼岸花がきれい。


石舞台古墳。私の中では石舞台といえば『久遠の絆』である。あれは修学旅行中に京都から石舞台までくりだしていって、石舞台古墳で敵と戦うという話だった。しかし、前日に安土城の石段を見てきたためか、外からみてのスケール的な感動はあまりなかった。安土城のおっちゃんが絶賛していた西田敏行が演じた大工の棟梁はたいしたものだ。四百年間だれもメンテナンスしなかったのにもかかわらず、それなりの石垣を残しているんだから。とはいえ、石舞台だって玄室に入り込んで覗き込むと、それなりに大したものだとは思う。


酒船石。亀石と違って、それなりに期待している状態で見にいくため、見ると非常にがっかりする。


彼岸花。飛鳥の里には彼岸花がさく。


新幹線まで時間が余ったので伏見稲荷に立ち寄る。飛鳥であまりにもプリミティブな物体を何かに「みたて」ろという要件が多かったからか、明らかに何らかの方向性をもって人間の手で作られているものをみると安心する。夕暮れで途中までしか登れなかったのが残念。