太閤立志伝5 独眼竜政宗 〜伊達公儀の時代〜

天下分け目

1587年5月。すでに上洛を達成していた伊達政宗は羽柴家の安土城を攻略、ここを居城とした。しかし、この直後に伊達家の同盟相手だった徳川家康(支配力5000)がついに羽柴秀吉に臣従し、伊達家と羽柴家の支配力関係は再び15000前後で拮抗した。

伊達家が近畿まで出兵できたのは、背後に北条・徳川との同盟があったからだが、このとき北条家は徳川・羽柴家の連合軍に攻められており、徳川家まで敵に回ったとあっては、伊達家は近畿で孤立する危険性があった。ゆえに政宗は自身で諸国をまわり、まだ独自に勢力を保っていた長宗我部元親(支配力2800)、羽柴家に領土を半分削られたとはいえ健在だった毛利輝元(支配力1800)を支配下に置いてこれに対抗した。

ここで、天下分け目の時がきた。羽柴・徳川連合軍が北条家の小田原城を攻撃に出陣した隙に、安土城から伊達主力部隊は摂津へ西進を開始。3つの城を一月の間に陥落させることに成功。さらに配下の越前国武田勝頼とともに、主のない羽柴秀吉の居城石山本願寺を包囲したのである。

このとき、石山本願寺には50000からの大軍があり、秀吉に服従していた大名宇喜多秀家も二万の兵を率いて城方の援軍にやってきたが、秀吉と主要な家臣たちは小田原に出兵しており、羽柴家の総大将は川尻秀隆だった。彼はきら星のように並ぶ羽柴家家臣団では凡庸な将であり、かつ城の防御力も60まで低下していたため、あえなく羽柴家が改築中だった石山本願寺は陥落した。

これにより、城下に籠もっていた羽柴家の家臣のうち34人が一度に囚われ、伊達家に転向した。また、石山にあった羽柴家の軍資金は60万貫におよび、それはこの時点で伊達家の安土城にあった資金の4倍に達した。このとき、蜂須賀正勝福島正則のような譜代衆が伊達家に臣従したなかで、羽柴家のなかで唯一臣従を拒んだのは、山内一豊ただ一人だった。支配地域だった奥州・北越に家臣団を貼り付けざるを得なかった伊達家だが、これにより数多くの有力な家臣団を上方に集中させることが可能になり、さらにそれを縦横に動かせるだけの軍資金を手に入れた。

逆に、この戦いにより羽柴家の勢力は一気に減退した。家臣団を失ったのも大きかったが、なにより戦略的にみた場合、二条城から石山に至るルートを失ったことで広大な羽柴家の領国は但馬・丹波から備後・出雲に至る地域と、美濃尾張から大和・雑賀に至る地域に二分されてしまった。とはいえ、海路がまだ健在であり、敗報を聞いた秀吉は急ぎ畿内に戻ったが、この時点では秀吉はなんとか伊勢大和路から畿内に戻ることはできた。また、戦後すぐに伊勢の織田信雄が羽柴家から伊達家へ臣従相手を替えた。

夢のまた夢

1587年8月までに、天下の形勢は完全に伊達家に傾いた。秀吉の居城は、石山本願寺から姫路、雑賀、丹波亀山城とかわったが、その都度城の規模が低下し、家臣団もそのたびに小さくなっていった。姫路城では羽柴秀長羽柴秀次、浅野長勝が伊達家に臣従し、臣従を拒んだ石田三成一人が自死して果てた。宇喜多秀家は伊達家の外交交渉により、伊達家に臣従し、羽柴家に臣従するのは徳川家のみとなった。さらに、長宗我部元親が河内に進出して、羽柴家はついに東西に完全に分断された。

秀吉は転変の最後に、鳥取城に居を動かしたが、ここがその最期の地となった。伊達政宗安土城から二万の兵を鳥取に出兵させたが、秀吉にはすでにそれを助ける援軍はなかった。鳥取城の落城寸前、秀吉は、伊達政宗の提案した「城将切腹」に同意し、家臣団を逃すことを条件に切腹して果てた。

辞世。つゆと落ち つゆと消えにしわが身かななにわのことも 夢のまた夢。

秀吉の残照

秀吉は死んだが、この時点でなお羽柴家の支配力は9000以上あり、その残存領土は伊達家についで天下二位だった。信長から秀吉が引き継いだ広大な領土を誰が引き継ぐのかは不明だったが、後継者に名乗りを上げたのは、なぜか美濃の稲葉一鉄だった。これは、羽柴家一門がすでに全員伊達家の家臣になっていたこと、残った羽柴家家臣団のなかで、もっとも勲功が高かったのが稲葉一鉄だったからだと思われる。

しかし、稲葉一鉄は羽柴家家臣団のなかでは美濃に孤立しており、その大名としての生涯は3ヶ月にも満たなかった。1588年2月までに、美濃と尾張を失陥し、稲葉一鉄は大和に潜んだが、すでに伊達家との戦場での交渉によって徳川家も臣従関係を外れており、その支配力は5000程度まで減少していた。逆に、徳川家康は伊達家の支配下に入った。最終的に稲葉一鉄は大和を全て失い、信貴山城で城兵を守るため、切腹して果てた。稲葉一鉄の家臣団からは、細川藤孝黒田官兵衛が伊達家臣団へと移った。

稲葉一鉄の死後、その中国地方の領土は備中高松城前田利家が引き継いだが、信長から秀吉に引き継がれた所領も、秀吉が切り取った出雲・備中・備後の3カ国と、安芸の一部が残るに過ぎなかった。しかし、前田利家はまだ稲葉一鉄に比べれば味方に恵まれていた。安芸の佐々成正、出雲の木曽義昌は比較的前田利家に協力して出兵し、伊達家に反攻したからだ。

しかし、1588年6月。3ヶ月間の戦いで備中を失陥すると、前田利家はついに伊達家に臣従した。この時点の前田家の支配力は1800程度だった。羽柴家勢力は失われ、本能寺の変をきっかけに北陸から畿内へ進出した伊達政宗は、ほぼ天下を手中に収めた。

関東・九州征討

この時点で、伊達に臣従しないのは九州の島津(支配力8000)と関東の北条(支配力5000)の2国だった。とくに北条氏は以前から同盟相手の伊達が応援に来ないことによって関係が悪化しており、さらに伊達に臣従した徳川家が数度に及んで侵入してきたこと・北条家が伊達に臣従している那須家を滅ぼしたことで、関係は最悪の状態になった。

1588年10月、伊達家は北条家との同盟関係を破棄し、配下の全国主へ北条家の攻略を命じた。北条家は当初の小田原城の防衛戦でこそ面目を保ったものの、小田原を失陥すると四方八方からやってくる伊達・徳川家の軍によって、15もの支城を次々と失った。北条氏政自身も、宇都宮・水戸で伊達政宗に破れ、常陸北部に2城を残した状態で、伊達家に臣従してかろうじて命脈を保った。

北条家が命脈を保ったのは。このころ九州の島津家が中国の毛利家へ攻撃をしかけ、山口を落とす勢いをみせたからである。伊達家は今度は九州へ向かった。1589年、小倉に居城を移した伊達政宗筑前豊前・豊後を島津家から奪い、日向・肥後へ進出する様子さえみせた。

しかし、この戦いの最中、1589年8月、伊達政宗は関白に任ぜられた。伊達政宗は天下惣無事令を発し、ここに天下の争いはことごとく終焉した。藤原氏に連なる伊達家は関白になることができた。伊達家の政権は伊達公儀と呼ばれ、200年の長きに続くことになる。

歴史イベントに関する補足

  • 徳川家康臣従:小牧長久手から秀康人質イベントを経て、徳川家康羽柴秀吉に臣従する。本能寺の変後、織田信孝家が滅亡していて、羽柴秀吉徳川家康織田信雄の大名家が存続していることが発生条件となる。
  • 同盟統一:支配力が35000程度を越えて、朝廷工作を繰り返すと、出自が藤原氏の場合は関白、源氏の場合は征夷大将軍に叙任され、ゲーム終了となる。政治体制がどうであれ、後日譚は基本的に江戸幕府と同じような国家ができあがって終わるが、このとき、大名の悪名が高いと、平和が続かず、戦乱がすぐに訪れる。というエピローグになる。
  • 攻城戦交渉:攻城戦では、包囲側から城を守る側へ、交渉を持ちかけることができ、城主の切腹、同盟の破棄なども求めることができるが、これが成功すると普段の交渉では成功しないような提案がとおることがある。代表的なものが「城将切腹」で、本城を攻撃中にこの提案が通ると秀吉だろうが家康だろうが、腹を切って死ぬ。
  • 他国に臣従する国家の支配:通常、他国にすでに臣従している国には、外交で支配を提案できないが、主命伝達ではこれを命じることができ、成功率も自国の「支配力」が高ければそこそこ高い。