知らざあ言って聞かせやしょう―心に響く歌舞伎の名せりふ

知らざあ言って聞かせやしょう: 心に響く歌舞伎の名せりふ (新潮新書)

知らざあ言って聞かせやしょう: 心に響く歌舞伎の名せりふ (新潮新書)


野暮用で時間つぶしのために本屋でぶらぶらした結果、購入。
「名言」とか「名台詞」という言葉に弱いもので。
ってなわけで、コーヒー屋でのんびり読んだわけだが、結構面白かった。
とりあえず、メモ。


歌舞伎の台本というのは、基本的に「本歌取り」の芸能であり、
先人の作ったものから、人気のあるシーンはいいとこどりをして、
次の作品を作る、ということがなされる。


その反面で、元の本どおりに演じられることはない。
常に新しい台詞や、演じ方が派生するもので、役者によって、
入れ込まれた台詞が正式な台詞として生き残ったりもする。


だが、明治になって脱亜入欧、戦後の米国文化傾倒によって、
芝居でも西洋文化の良いところも悪いところも取り入れた結果、
それ以前の江戸期に作られた歌舞伎の文化は廃れてしまった。


西洋文化は常に古いものを崩して新しいスタイルを作るものである。
その影響を受け、古くても良いものは残し自作に取り入れるという
脈々と続いてきた連鎖が途絶えてしまった。……という本。


途絶えてしまった例なのか、どーなのか。
http://blog.oricon.co.jp/writerz/archive/615



歌舞伎には「世界」があり、たとえば武家モノだったら、
源平合戦」や「曾我兄弟」などの世界観と人物を借りつつ書く、
という手法がとられる。
原作再現ではなく、元作品のモチーフを生かしていれば、OK。
歴史上の登場人物に対して、新解釈をつけたりすることもある。
(「帰還を許されたが、敢えて帰らなかった俊寛」など)


不義としては、遊女と若旦那と妻の三角関係、義理の母と息子、
中年男性と少女、上司の妻と部下、見ず知らず育った兄妹など、
読んでて、日本人の嗜好ってほとんど進化してないんじゃねえのか、
と思わなくもない。


基本的に不義があると心中することになっており、それを「道行」という。
*1


間違った把握かもしれないが、「歌舞伎での心中」っていうのは、「水戸黄門の印籠」とか「戦隊ヒーローものの戦闘シーン」「RPGのボス」みたいなもので、わやくちゃになった状態から物語を落とすための「機械仕掛けの神」みたいなもので、別に当時の作者の人がすごい勢いで心中好きだったわけじゃないんじゃないかと思った。
もちろん、「水戸黄門のチャンバラがすき」という人も多いというか、視聴者はそっちを見てるわけだが、書く方はそこにいたる状況を書きたかったんじゃねえのかなあ。

*1:浅羽と伊里谷のも、「道行」であるといえよう。