2030年の夏祭り

1.2030年の夏祭り
2.線路の上の二人の女
3.November Rain
4.伊里野の冬 <その1>
5.伊里野の冬 <その2>
6.伊里野の冬 <その3>


 バスの奥の席に座っていた丸顔の婆さんを、浅羽はまったく覚えていなかった。
 困ったような、喜んでいるような顔をしたその女性は、おそらく六十歳くらいだろう。しばらく浅羽の顔をみたまま固まっていたが、観念したように確かに小さく会釈をした。
曖昧な顔で挨拶を返しながら、浅羽は自分の電脳に問い合わせてみたが、やはりこの女を見た記憶はなかった。浅羽が電脳を移植したのは十二年前のことだから、少なくともそれからあとに店にやってきたことのない顔だ。
 そんな知り合いがいたかな?
 外部記憶を電脳に置いてからの記憶は極めて明快であるのに対して、それより前の記憶は、ひどく曖昧で、ぼやけている。このときも、浅羽は女のことを思い出すことができなかった。
「根性〜〜〜〜〜!」胴間声に思わず窓の外に視線を向ける。
 背の低い商店街の向こう側に、岡ノ上の校舎の屋上部分が見えていた。そこを、中学生らしい人影が右往左往する様が義体化された浅羽の眼は見ることができた。
 園原中学に近づくにつれ、満載状態になっていく乗客たちによって、とうとうその婆さんの姿は見えなくなってしまって、浅羽はそれきり婆さんのことを忘れた。

「オッサン! 号外、無料配布だよ!」
 人を婆さん扱いする浅羽も、すでにいいオッサンなのだった。
 校門のところで旭日祭の案内を配っている新聞部員からそう呼ばれて初めて、浅羽は自分がひどく年を取ったことに気がついた。いつも店に来る客はそう変わらないから、自分もなんとなくいつまでも三十歳くらいのつもりでいたのだ。
 もう、四十二歳になるというのに。
 床屋に来る客の話からすると、卒業後に2回改築された校舎は、浅羽がぼんやり覚えているものとは大きく異なるような気がしたが、どこがどう違うのかは、すでに分からなかった。同じなのは、校庭と校舎と部室長屋の位置関係くらいだ。いや、あの打ちっ放しのオフィスみたいな建物は本当に、部室長屋なのか?
 少なくとも、屋根はあんなに高くなかったはずだ。あれでは屋根の上に上がることができそうにない。

 校舎の一階には、電話機はなかった。

「お父さん、本当に来たの?」
 新聞部の展示会の受付にいた夏奈は、浅羽を見て、いささかハッキリとしすぎた眉を寄せ、あきれたような声をだした。二十一世紀初頭に中学生だった浅羽からすると信じられないことだが、第四次非核大戦と福岡への遷都を経ても、なおも公立中学校には校則と女子生徒たちの暗黙のルールがあり、一年生は化粧していいのはリップクリームまで、髪留めは紺か黒、病気か怪我以外での義体化は禁止と決まっているのだ。
 自分の娘に『かな』と名付けることについては、浅羽は必死で反対したが、この手の問題について晶穂には結局一度も勝てない。あんたは、こんどこそ、この子を幸せにしてやりたいとは思わないの?と、ベットのうえで赤子を抱えた妻に詰め寄られて首を横に振れるハズがないのだ。あのときは、そういって、親父が慰めてくれた。
 不幸中の幸いで、夏奈は晶穂に似て育った。不幸なのは、家庭生活において、常に2対1での交渉を強いられる点であり、幸いなのは夏奈を見てもあの子のことを思い出さないことだ。

 あの子が誰だったのか、浅羽はもう思い出すことができない。

 夏奈に追い立てられるかのように浅羽が展示室に入ると、夏奈の隣に座った髪の長い女生徒が、うつむいたまま「大人、ひとり」と、入場者数を示す「よ」の字のシールをぺたっとノートに貼り付けた。
 園原中学新聞部のこの年の展示会のテーマは「時間旅行と未来人」だった。
 浅羽はTT作品の相関図と分類がえがかれたクリップをしげしげと見つめ、どうやらクルミか何かの実を模したような謎のオブジェの説明を茶髪の部長らしき男子生徒から聞いて、ついでに未来人の存在可能性について2,3点不明点を確認してみたが、部員の質はあまり下がっていなかったので安心した。

「ああ、真奈ちゃん。これ、うちのお父さん」
 だから、油断していた。
 展示室を出たところで、夏奈の隣に座っていた女子生徒が顔を上げる時まで、それに気がつかなかった。その、ぎこちないほほえみをみるまで。白くて細い顎が小さく動いて、「どうも、はじめまして、伊里野真奈です」と、言葉がでるまで。

 びっくりしたでしょ、真奈ちゃんは全身義体なの、というような夏奈の言葉はまるで耳に入らなかった。浅羽が微動だにしないので、不安に思ったのか彼女はものすごい勢いで釈明を始めた。

 わたし、子供の頃にひどい怪我をしたらしいんです。
 それで、全身義体になるしかなくって、ゴースト以外は全部義体になったんですけど、やっぱり練習していてもなかなか慣れなくって、今でもうまく笑えないんです。あ、「したらしい」っていうのは、この体になる前のことはあまり良く覚えてないからで……
 あの、どうしました? あの、あのっ?

 真奈は、顔面から鼻汁を始め、ありとあらゆる液体を流しながら泣き続ける四十男の前で、途方に暮れた。
 夏奈はしばらく悩んだあげく、地雷原に住む子供たちの取材でベイルートにいる母親に電通をかけてみたが、飲んだくれているらしい母親の脳天気な歌声が返ってきただけだった。
 入道雲がぽかりと浮かぶ空、「根性〜〜〜!」という叫び声と蝉の声がどこまでも木霊する。
 2030年の9月も半ば。それでも、夏は、まだ続いていた。


1.2030年の夏祭り
2.線路の上の二人の女
3.November Rain
4.伊里野の冬 <その1>
5.伊里野の冬 <その2>
6.伊里野の冬 <その3>