伊里野の冬 <その1>

1.2030年の夏祭り
2.線路の上の二人の女
3.November Rain
4.伊里野の冬 <その1>
5.伊里野の冬 <その2>
6.伊里野の冬 <その3>

ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン。


そのババアは明らかに常軌を逸していた。
そして、他人の眠りを妨げる人間は、死に値する。浅羽夏奈はそう信じる人間だった。
一方、伊里野真奈は何があっても身動きひとつせず、ひたすら熟睡していた。とても、逃げている本人とは思えない熟睡っぷりだった。ひたすら定期的に動く鼻の穴をみながら、なんかでつまんでやろうかと夏奈は思ったが、伊里野を怒らせると痛い目にあうのはよくわかったので、やめておくことにした。
かわりに、ババアに怒鳴り込むことにした。
寝床の脇に転がしてある杖を手に取る、立ち上がるときに、ズキンと鈍い痛みがはしって、眉間に皺がよる。人間は、痛みを我慢できないものだな、とつくづく思う。そして、夏奈は痛みを怒りに変換しながら、ババアを見つけるまで廃映画館のなかを一息で歩き通した。杖に頼って一息であるいた新記録だった。
ババアは映写室のなかを完全にひっくり返していた。骨董品物のフィルム式映写機が部品単位に細分され、いまもババアの手の金槌とノコギリが新しいパーツをえぐり出していた。ババアめ。昼間静かにしていたから、油断したこっちが莫迦だった。
夏奈は一息ついて、怒鳴ってやった。
「うるさいっ!ばーさん、本当に逃亡者の自覚あるの!?」
ババアはなんでもないように、振り返った。
夏奈はその落ち着いた動作すら信じられない。とても、官憲に追われている人間には見えない。
「だって、仕方がないじゃないか。リーピチープが、アスランを探せというんだから」
ババアはそういって、懐からそれを差し出した。
片手にのるくらいの大きさの、ネズミのぬいぐるみだった。
リーピチープ。とババアが呼ぶぬいぐるみだ。ババアはババアのくせに、変に少女趣味で、かたっぱしからぬいぐるみに名前をつけていた。この廃映画館が昔はなんだったのかしらないが、膨大な数のぬいぐるみが倉庫に眠っていたのが状態を悪化させていた。ババアは数日前から「リーピチープ」と一緒に「アスラン」という名前のライオンのぬいぐるみを探して夜な夜な放浪しているのだった。
「あのさあ、ばーさん。頼むから、探すのはせめて日が昇ってからにしてくれないかな?。あたしたち、眠りたいんだ」
「勝手に眠ればいいだろうが。どうせ、お前の連れは寝てるだろう」
こんなことなら、このババアが映画館に入り込んできた時に、殴り倒しておけば良かった。夏奈は七割くらい本気で思った。
「足の傷が痛くて、眠れないんだよ。あたしは」


伊里野をつれて、夏奈が園原市から逃げ出したのは、ほんの一週間前のことだ。半ば強制的に巻き込まれたとはいえ、いま思えば、あれほどアホな決断はなかったと思う。いまでは反省している。本当だ。できることなら、かっこつけて伊里野の手を引いて走り出した自分の後頭部をななめ45°から強打してやりたい。
まず、伊里野はともかく、夏奈の方は逃げ出す心づもりが全くなかったので、二人の財布には三万円しかなかった。その大半は、伊里野が密かに隠し持っていた金だ。夏奈の小遣いは四桁ギリギリだった。
唯一、夏奈が役にったったのは、廃墟に泊まり込むことに慣れていたことくらいだ。
問題は、二人が隠れ家にした廃映画館に、勝手にババアがあがりこんで来たことだった。


ババアは名前を名乗らなかった。
「おばあさん、今日のご機嫌はいかがですか?」
「ああ、おかげさまで」
だが、ババアは気がつくとそこにいて、すっかり伊里野と夏奈の生活に、寄生していた。三万円しか持ち金のない、しかも一人は歩けない女子中学生二人ずれに寄生する大人ってどうよ、と夏奈としては思うし、ついつい声も荒くなる。
「ババアっ!自分の食う飯くらい、自分でなんとかしろよ!」
「あさば。叫ぶと、傷に障るよ」
だが、夏奈が逆上すると必ず伊里野が控えめに手を引いてくれた。
だから、夏奈とババアはいつまでもいつまでも、平和な喧嘩をし続けることができた。ずっと。もう一週間にもなるというのに、追っ手はまだ来なかった。
「いってくれれば、いつでもあたしはなんとかするさ。お嬢ちゃんの傷を治療してやってるのは、誰だと思ってるんだね」
そういって、ババアは伊里野が3㎞離れたコンビニで買ってきて、伊里野が作ろうとして失敗したのをやはり夏奈が作り直したスパゲッティをちゅるるる、と実にうまそうに吸い上げた。
なんでもいいから麺類を買ってこいという指令を受けて、わざわざスパゲッティを買ってきたのは伊里野だ。ちなみに、ソースは買ってこなかった。幸い、イワタニのガスコンロとガス缶は夏奈が豊富にもっていたから、スパゲッティをゆでるのには不自由しなかったが…… ホームレスのババアはともかく、素のスパゲッティと麺つゆのセットを旨そうにほおばる伊里野は、やはりどこかおかしいと夏奈はつくづく思った。
夏奈が怒鳴らずに済んだのは、伊里野がとても満足そうに。
「それ、わたしが買ってきたんですよ」
と言ったからだ。たぶん。
だが、伊里野がやったのは、せいぜいお湯を沸かして塩を入れた所までだ。


浅羽夏奈の叔父は奇人であり、奇才だった。
そして、魅力的な人物だった。本当にこの人に輝いていた時期があったんだろうか、と思えるほど冴えない父親よりも、夏奈は性格が派手な叔父が好きだった。叔父は「こくぼうかんけい」の仕事をしており、滅多に園原市に戻ってこなかったが、帰ってくると必ず夏奈の家に遊びに来て、深夜まで酔っぱらっては、夏奈の両親とどうしようもない馬鹿話ばかりしていた。
叔父はやせていて、背が高かった。目つきが鋭いせいか、少し怖い顔だが、夏奈の前ではいつも目が笑っていた。そして、10歳の夏奈を子供扱いしない変な大人だった。
一度だけ、家族の誰にも内緒で叔父の家に遊びに行ったことがある。
園原市の中心部にある高層マンションが叔父の家だった。叔父は嬉しそうに、いろいろな話をしてくれた。いまから三十年前の子供の頃の父と母の話や、叔父のしている仕事の話は当時まったく理解できなかったが、叔父がいかにも楽しそうに話すので、それを聞いているだけでもとても楽しかった。
叔父の家では、泣き虫で鼻血をだしてばかりの小さな女の子がいて、うるさく夏奈につきまとってきた。もっと叔父さんの話を聞きたかった夏奈は、しつこいその子を泣かせた覚えがある。
「仕事が忙しくなった」と自宅の食卓の上に一言メモ書きだけを残したまま、叔父が姿を見せなくなってから五年ほど経つ。最近では、浅羽家でも叔父の名前が話題に上ることは少なくなったが、それでも家族の誰かが叔父のことをふと話しだすと、堰を切ったように欠席裁判のごとき叔父の悪口大会が始まるのだった。
そんな夏奈の叔父の名を、水前寺邦博という。


園原市内某所。
水前寺邦博の捜索本部は日に日に要員を増やし続けていた。
「ここはヤツのホームグラウンドだ。人数がいるからといって、気を抜くな」
我ながら説得力がないな、と思いつつ、男は並んだ部下たちに向かってこの日三度目の訓辞をした。内閣情報庁の一職員である水前寺の身柄を拘束することに、よほど『上』が拘っているらしく、各種機関から次から次へと人ばかりが送りつけられてくる。それをさばくのは、すべて先に現地に入っていた人間の仕事になった。
車中で二人きりになってから、男の同僚は大声でぼやいた。
「俺たちは捜査員であって、新米スパイの保護者じゃねえぞ」
「まあ、連中には適当に市内観光でもしていてもらうさ」
正直言って、先坂絵里を確保してある現状、すでに水前寺を捕らえられることは確実だ。今さら、要員が増えようが減ろうが、大局には何の影響もないし、どこの馬の骨か分からない連中に、余計な情報を持ち帰ってもらっては困る。
そもそも、思考戦車を破壊されたのが計算外だった。あれさえなければ、うちの人間だけで片を付けられたはずだ。
「あとは、小娘一人に実弾を当てちまったことだな。あれでイリヤのヤツは本気になったみたいだ」
同僚は実際にイリヤと戦ったらしい。そのときの傷はまだ疼くようだ。神経も通っていないのに傷が疼くのは妙なものだと義体化率が低い男にはそう思えるが、不調な部品の痛みを感じることは義体にとっても重要であるらしい。
園原市での遭遇戦の戦果としては、当方の思考戦車一台大破、エージェントが三人意識不明となり、幸いなことに死者はなかったが、イリヤと同行していた民間人を負傷させてしまった。そして、それがきっかけで、伊里野真奈という小娘の学園生活は終わってしまった。
いまでは、イリヤと浅羽夏奈は立派な逃亡者だ。
そして、こちらにも監視者が複数付き、計画の実行はさらに困難になった。それでも、イリヤを殴り倒してでも確保し、水前寺を捕らえることが、男の使命だった。
「予定通り、明後日に決行する」
「そうか、じゃあ少し時間があるわけだ」
同僚は頷くと、ぼりぼりと白髪頭を掻いた。義体化(注・義体化とは体の一部を生体部品に置き換えること。全身義体の場合は自我以外の全てを機械化すること)されているはずの同僚の頭から、雲脂のような白い固まりがシートに落ちることに、男は一瞬感動した。
「ちょっとばかり、床屋に行ってきて良いか?なじみの店があるんだ」


「イギリス人の箱、という話がある」
たしか、水前寺はそう切り出した。
「でかい箱があって、中にイギリス人と中国語の辞書が入っている。イギリス人は中国語が分からないが、中国語の辞書を引くことはできる。そこに外から中国語の文書を入れる。イギリス人は辞書を引いて文書を翻訳し、それに対する答えを辞書を引いて書き表す。そして、箱からは中国語で書かれた回答文書がでてくる」
ここで、タメを作り、周囲の顔を見回す。
「さて、この箱を外から見た人は、この中に中国語が分かる人が入っているのか、中国語が分からない人が入っているのか、推測できるだろうか?つまり、対話が成り立っているからといって、相手がそれを理解しているかどうかは分からないのではないか?」
「先生」
夏奈が、すっと手を挙げた。
「たしか、逆じゃありませんでしたか?中国人が箱の中で、英語でしたよね?」
「叔父さんは、中立的観点からなされてないように聞こえる発言は嫌いなんだ」
それは、夏奈の夢。
あの叔父の家で、夏奈の横に座っていた鼻血娘は誰だった?


直之がその客のことを嫌がったのは、一目みてわかった。明らかに男からは軍隊の香りがした。
「申し訳ございません。息子は、兵隊の方が苦手なんです」
「そりゃ、すまないことをしたな」
その白髪の男はそういって笑った。眼球をレーダーに置き換えているのにも関わらず、豪快な笑顔だった。そして、男はその笑顔のまま聞いてきた。
「ところで、水前寺さんは?義理の息子さんだと伺いましたが?」
店主はごくさりげなく目を伏せ、残念そうに言った。
「申し訳ないが、五年前に娘と水前寺君は別居してましてね。その後はまったく連絡を受けてないんですよ」
「そりゃ、悪いことをきいたな」
そう言ったあと、男と店主は自衛軍の新型支援戦闘機について、それぞれが猫派か犬派か、近所で評判のドッグフードについて、熱心な意見交換を繰り返し、最後に釣り銭と一緒に店主はブランドの書かれてないチューインガムをひとつ、レジから出してきて男に手渡した。
「子どもには、これを渡すようにしてるんです」
「俺が、ガキかよ?」
「二十一世紀生まれの人間は、みんな私の子どもみたいなものですよ」


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