天の光はすべて星

原題は「THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS」。
面白かった。古典SFなので、もちろんそれなりに「古典を読んでいる」感じはあったけれども、宇宙への最後の夢を追う主人公の熱意と挫折をつづったメインストーリーが力強く、さほどガジェットや小細工に頼らない物語なので、今読んでもさほど古色蒼然とはしていない。
というか、読んでいる最中かなり長い間、騙されていた。1969年までに人類を月にあげる計画があったが、その過程で人類は核融合機関的なものを開発することに成功して、1999年の段階で火星や金星まで人類が到達している世界を舞台にしているのだが、不勉強なもので、「1969年までに人類を月に」というのは当然「アポロ計画」のことで、これはずっと60年代か70年代に書かれたSFなんだと思っていた。

ところがどっこい。後半で「発狂した宇宙」や「火星の大統領カーター」に言及されるに及び、ようやく表紙の裏に書いてあった日付をみて驚いた。これは1952年に刊行された小説であるのだ。うわあ。

読んでいる最中は「携帯電話とインターネットのない1999年」を舞台にしたSFだなあ、と思って読んでいたが(米国上院議員ですら携帯電話を持っていない! 電話をするには、相手が自宅かオフィスにいないといけないのである!)、1952年に刊行された小説に「2000年の狂躁」であるとか、「人類が西暦2000年を迎えた感慨」が書かれているのがすごい。この世界では共産主義陣営が自滅して消失しており、共産主義陣営との競争の結果、宇宙開発が進捗したことや、人類を手近な惑星にとばしたあと、そこに資源がなかったことで宇宙開発が長年停滞したことが書いてあるに至っては、今現在に書かれたとしても通用するんではないかな、と思わざるをえない。


この作品の主人公は木星行きを夢見る57歳の老ロケット技術者なのだが、ずっとこないだ読んだ野尻抱介の短編集「沈黙のフライバイ」の短編にあった火星行きロケットを乗っ取って片道旅行にでる30代のカップルたちが脳裏に浮かんでいた。

もちろん、作中世界に比べて現実の方が進んでいるところもないではない。先に書いたように、この世界には携帯電話もインターネットもないし、人工衛星は2機程度しか飛んでいない。軌道エレベーターマスドライバーの発想もない(当たり前だ)。
しかし、物語が力強いのである。そして、この作中の未来予測は、そんなに外していない。作中最後の年である、西暦2001年がずっと前に過ぎた現在からすると、なおさら。

我々はやがて顧みることになるのであろう。自分たちが書いた「未来に関するSF」が、「過去に書かれた、パラレルワールドとしての過去を舞台にしたSF」になっていく姿を。そのときに、この本ほど依然として力を持っている物語は、そうはないのではないかと、思わざるを得ない。


巻末の解説というか、エッセイが「グレンラガン」に関する話だったのは、なんのことやら私にはまるでわからない。次は「ディファレンスエンジン(下)」である。