プロバビリティ・ムーン

プロバビリティ・ムーン (ハヤカワ文庫 SF ク 13-1)

プロバビリティ・ムーン (ハヤカワ文庫 SF ク 13-1)

いやあ、SFって本当に素晴らしいですねえ。
Amazonの評価はあまり良くないが、むちゃくちゃ好みで、面白かった。
2010年代の始めに読むに値するSFだったように思う。

太陽系内の惑星へ植民を初めてからまもなく、超古代文明の遺産(アーティファクト)であるスペーストンネルを太陽系外周で見つけた人類は、間の過程をとばして、いきなり恒星間文明を築くことになる。そうして、一足飛びで居住可能な惑星を植民地とし、他の知的生命体が居る惑星に調査団を派遣したりしていたら、唐突に好戦的な異星人と接触してしまって、あれよあれよという間に宇宙戦争に突入。それが定常的な状態になったような世界設定で、辺境の新しく発見された人間型の知的生命体が居る惑星へやってきた調査団の一行と、科学技術のない牧歌的な世界で生きている原住民たちの交流、しかし……

続刊があるので、そっちはどうか分からないが、この1冊目では「スペーストンネル」とか「宇宙戦争」みたいな背景設定は話のツマでしかなくて、最大のネタは原住民たちの持つ『共有現実』という概念である。これが非常に面白い。彼らの「世界(現地人はは自分の星を「世界」と呼ぶ)」に存在するすべての人は、全員が同じ現実を共有している。人の間に「嘘」とか「見解の相違」というものはなく、あらゆる出来事について同一の認識を全員が共有している。これをなんか群生的な、テレパシー的なもので実現しているのではなく、単に伝言に始まるコミュニケーションだけで成立させているのが、作中に登場する「共有現実」で、繰り返すがこれはすごく面白い。そして、他人と同じ現実認識を共有していない人間は、すなわち「非現実人」であるとされる。つまり、同じ認識を持っていない、持とうとしていない人は「実際には存在しないもの」「存在してはならないもの」として扱われるのである。これは単純な村八分から、もっと直接的には殺害という形をとる。
このため、この世界では科学技術はあまり発達せず、国家とか民族とか宗教の違いとかもなく、戦争も起きない。もっとも、他人のものを盗むことはある(その辺に無警戒にものを置いておくと盗まれることがある、という現実を全員が共有しているため)し、大金持ちの商人と使用人の違いなども(知恵は個々人で違うので、同じ現実を共有していても、成功する人間とそうでない人間がいる)あるわけですが。

作品の主人公の一人は、原住民の女性で、彼女は自分の肉親を殺したことによって「非現実人」とされている。「他の現実人の命を奪うのは現実認識を自ら破壊すること」であり、すなわち現実を共有していないと見なされる。「非現実人」は自らの大罪を償うことによって初めて「現実人」であると再度認められるため、彼女は現地政府の密命を受けて、やってきた地球人に対するスパイ行為を行うのである。

なぜなら、現地人からしてみると、やってきた地球人が「自分たちと同じ現実を共有している」現実人であるのか、異なる現実認識を持っている非現実人であるのかが大きな問題だからで、「非現実人」だと分かったら抹殺しなければならないのだ。

これに対して、やってきた地球人の調査チームは、自分たちは一人一人異なる認識を持っていることを前提に、現地人のまえでは現実人として振る舞おうとする。しかし、徐々に徐々に、地球人たちの装う共有現実には綻びがでてきて、最後には破綻の時を迎える。

この「共有現実(世界で起きる事象について、すべての人間が同一の認識を共有している。異なる認識を持つものは存在しないものとして扱われる)」という奴は、それに無意識に縛られる人々、という図は「空気を読め」的な空気がもっと濃密になった社会、あるいは不文律としきたりが支配する前時代の社会をSFとして描いたものとして読めると同時に、とてもコペンハーゲン解釈的だよなあ。たぶん、そういう話なんだろうなあ。