日本辺境論

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやりやり参加させられた。そのルールは私たちが制定したものではない。でも、それを学ぶしかない。そのルールや、そのルールに基づく勝敗の適否については包括的な判断は保留しなければならない。なにしろ、これが何のゲームかさえ私たちにはよくわかっていないのだから。

ラノベの話ではなく、この本が述べているのは日本人の持つ基本的な世界観の話である。日本人は自分たちの住む世界について、そのように認識している。ここでは、その是非は論じない。とにかくにも「私たちはそうした世界観を持っていて、それこそが日本人の「民族的奇習」である。まずはそれを認識するところが、第一歩なのだ。

日本列島の住民たちが彼らを「東夷」と格付けする宇宙観に同意書名したのは今から千八百年ほど前のことです。

同じく某ラノベの話ではなく、私たちの世界は、始まった瞬間から、宇宙の辺境に位置づけられている。世界の中心は常に別の場所にあり、私たちの世界はその「王化の光」がとどくギリギリの場所にある。かろうじて中央からもたらされる光によって文明がもたらされる。それが日本人の持つ基本的な宇宙観である。
ここでいう「中央」はかつては中華王朝であり、明治維新後は西欧であり、日本の内部では東京であり、戦後にあってはアメリカであり、近年にあっては例えばスウェーデンであったり、シリコンバレーであった。
我々にできることは、「彼ら」「中央」が定めたルールに従って、勝敗条件も目標もよくわからないゲームに参加することだけだった。だから、某ラノベの話ではないというのに。

メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信側の読み込みさえあれば、学びは起動する。

どこかに中心があり、自分たちはそこから遠ざかっているという自覚に乗っ取っているために、辺境人である我々は師から多くを学ぶことができる。師匠がとくになにも語らなくても、師匠の言葉に実際には何の意味もなかったとしても「それに意味があるのだ」と弟子の側が思いこんだ瞬間、それは価値のあるメッセージに変わる。しつこいが、某ラノベの話ではない。

ここがロドスだ、ここで跳べ!

基本的に宇宙の中心から離れ、常に相手の出方を伺い、世界に存在する規範にまなぶ日本人も、ときとして主体的な決断をする必要に迫られる時が来る。「清水の舞台から飛び降りる」という奴である。それは何度も「ここがロドスだ。ここで跳べ!」と語られる。
武術を学ぶものや、宗教者はこの「辺境人である」自我を乗り越えるために何を行うのか。それは自らを追い込むということである。自ら刃の上を歩むような状況に自らを追い込む。それが「機」の思考である。一か八か。
基本的に暢気な日本人には、他者の踏襲ではない、自分なりの決断をして、大きな跳躍を遂げるには、かならず自分を深く追い込む必要性がある。「ここがロドスだ。ここで跳べ!」。それが「機」であり、日本人はそうして「清水の舞台から飛び降りる」つもりで跳躍する。

……一か八かの跳躍である。このとき、あまり後のことは考えないのが日本人の弱点であり、美点であるようにも思う。

ともあれ、面白い新書だった。本当なんだぜ。