DQⅠ→Ⅱ・中編

サマルトリア植民地の成立とその後の経緯


ローレシア植民地の誕生から三十年の時が流れた。
ローラ姫はまだ健在だったが、竜王を倒したロトの子孫はすでに亡く、彼とローラ姫の間に生まれた2人の息子がローレシア植民地を、アレフガルド王の代官として治めていた。
ロトの子孫の亡骸は、彼が探検中になくなったローレシア植民地の北東のほこらに葬られた。この後ロト王家が誕生した際に、この祠は王家の陵墓として「勇者の泉」と呼ばれることになる。


三十年間でローレシア大陸と呼ばれた東の大陸全土は、アレフガルドの植民地として平定されていた。しかし、大陸全土をローレシア植民地として統治することにはアレフガルド本国からの反対意見が多く、ローラ姫の異母兄にあたるラルス17世はローラ姫の子供たちとは別に、もう一人の代官をローレシア大陸へ派遣した。
リリザの街と勇者の泉をつなぐ線の東南側をローレシア植民地とし、北西側は別の代官が治めることが定められた。この別領土をサマルトリア植民地と呼んだ。
当時サマルトリア城と呼ばれた城は、ローレシア大陸の西の端に近い湖の中島に建造された要塞であり、派遣当初から彼らの仮想的がローレシアであったことは明白であった。

ローレシア独立戦争


やがて、ラルフ十七世が崩御して、その子ラルフ十八世が即位した。
この機会にローレシア側がサマルトリアとの境界線上の地域に、ムーンペタへの隧道を掘り始めたため、サマルトリアは騎士団を出動させてこれを妨害、両地域の対立はついに武力衝突に発展した。


隧道の計画はローラ姫が直々に提案したものである。
後の時代の船では問題にならなかったが、ローレシア大陸とムーンブルグ半島の間の海峡は海の難所であって、とくに当時の大型船では交通不可能であった。
リリザムーンペタの商人たちは交易のために隧道の必要性を何度もローレシアに要請していたが、隧道建設を行えばサマルトリアアレフガルドから牽制を受けることはローラ姫も想定しており、長らく実行に移されることはなかった。
だが、自分の直接の縁者がアレフガルドからいなくなったこと、2人の息子がすべて成人したことがローラ姫を決断させたと考えられている。


ローレシア植民地はアレフガルドからの独立と、大陸全土の掌握を求めてサマルトリア領へ侵攻。
サマルトリア軍はアレフガルドからの支援を当てにしていたものの、先述の海峡を通行できなかったために前線を東側にしくことができず、当初からサマルトリア城塞の周辺の峡谷を固めて防戦する形になった。


この後、ローレシア側はリリザの街の北に作った前線基地を拠点に繰り返しサマルトリア城塞を攻撃し、二年にわたる戦いののちにサマルトリア城塞を攻略した。
サマルトリア城塞の地上部分はこのときの戦いで破壊され、いまは城の地下室が元になった洞窟が残るのみである。


サマルトリア城塞が失われたことで、アレフガルドローレシア植民地の独立を認め、ローレシア大陸から撤退した。
この後、ラルス十八世は失意のままその後四十年近くに渡って玉座にあったが、彼と彼の官僚たちはこの失敗の精神的ダメージが大きかったためか、先代のラルス十七世の持っていた外世界への意欲をすっかり失い、アレフガルド国内の統治に専念することになる。
この内向的な性質は次代のラルス十九世にも伝えられ、ラルス十九世の次代にはアレフガルドは外交の舞台から姿を消してしまう。

独立戦争


ローラ姫は、ローレシアの独立後、かつてのサマルトリア領を自分の次子にゆだね、長子にローレシアの統治を完全に任せると、ムーンペタとの隧道建設に余生を費やし、その完成を見守ってから死去した。
このため、隧道は彼女の死後「ローラの門」と呼ばれることになる。


サマルトリア領をゆだねられた、ローラの次子は、かつてのリリザの北の前線基地を新サマルトリア城として、サマルトリア王国を建設した。
移民の国ローレシアから、さらに移民してきた人間たちの国だったため、人口は少なかったものの、リリザムーンペタの商業が発展するに従って高度な文化が発展していく。