旅行記の補足

旅行中に書いていたメモより。

兵庫県に初めて来た。

三宮散策中にゴーフルの店、神戸風月堂を発見。そういえば、田中哲弥の「大久保町」シリーズには、そこそこの頻度でゴーフルがでてきたなあ。読んでいた当時は何も思わなかったけど、あれは以外とご当地モノだったんだろうか。蛸もよくでてきたけど、あれも明石の蛸だったんだよな。

あ、ハルヒが子どもの頃に見た野球って、「五万人の観客」という言葉から無意識に東京ドームで巨人戦のイメージを浮かべていたが、地理的に考えると甲子園で阪神戦かグリーンスタジアム神戸オリックス戦だったのかもしれない。

現在はもちろん2007年だが、小説が書かれたのは2003年なので、ハルヒの「小学校六年生くらい」というのは、6年前で1997年くらい? おおまけにまけて、1996年に見にいったとすると、これは阪神大震災から一年半後の神戸でオリックス日本シリーズに勝った年で、「ふだん野球なんて見にいかない」家族が唯一見た野球の試合としては、これほどふさわしいものはないと思う。

しかし、グリーンスタジアム神戸は定員3万2千人なんだな、これが。定員五万人を越えてる球場といえば、あとは甲子園なんだよなあ。甲子園で阪神戦ってことへ、イメージを転換することにする。

なんか、かなり違うんだが、イメージが。

ハルヒの2冊目以降はなぜ面白くないのか

誰の心にも、現実的な心配と非日常への憧れ、という二つのベクトルがある。この「現実的な心配」というファクターが弱いのは中学生くらいまでで、そのために中2病に発症することが多い。

90年代の初頭のフィクションでは、この「非日常への憧れ」が全開の時期で、たとえば「魔神英雄伝ワタル」では、異世界にやってきたワタルはどっぷりと創界山という非日常のなかに没入していて、冒険の間に現実世界のことについて心配などしなかった。
セーラームーンだってそうで、主人公はどっぷりと前世からの宿縁につかり、気がつけば「日常」の友人だった大阪なるとは疎遠になって、身の回りには非日常的な人間関係しか残っていなかったし、それを特に不幸とも描かれていなかった。
この時期流行ったファンタジーもそうで、ひたすら人々は帰らずの森がどーの、ドワーフの大トンネルがどうの、といった「非日常」に耽溺していた。
エヴァンゲリオンだって、主人公には序盤で「非日常」から逃げ出して平凡な日々に戻るチャンスがあったのに、結局彼は「非日常」へと帰って行く。そして、それは肯定的に描かれている。

だが、90年代の半ば以降、「現実に踏みとどまる」物語が出てくるようになった。
その発端は「もののけ姫」と「ホワイトアルバム」だと思う。イエイ。

もののけ姫」は踏みとどまる物語である。アシタカはサンに好意を抱き、山犬たちに協力しつつも、最後まで人間の世界に留まっているし、多々良場を救うために力を尽くしても、全面的に協力しているわけではないし、ジゴ坊と戦うにしても命まで取ろうという気はないように見える。アシタカは一見すると蝙蝠のように、その場その場で味方を選んでいるようにみえ、その優柔不断さがいらだたしい時もある。

Leafの「ホワイトアルバム」を挙げたのは、まあ萌えゲーだからであるが、例えば「雫」「痕」は完全に主人公が非日常に浸ってしまう話だし、ToHeartは逆に現実から一歩も出ない話なのに対して、「ホワイトアルバム」は「アイドルである彼女」と「ただの大学生である主人公」という非現実と現実のせめぎ合いの物語になっているからだ。*1作中、「アイドルであるヒロイン」の心配事や悩みは主人公からするとどれも浮世離れしていて実感しにくく、これに対して例えば「同級生の女の子」の悩みは兄を亡くしたことであったりして、現実に足が付いている。主人公はその二点(自身の現実からは遠く離れた芸能界の物語と、身近な友人たち)の間で揺れ動く。

こうした人間関係は近年ではポピュラーで、例えば「Kanon」での名雪とあゆを見ると、名雪は主人公とは従姉妹であり、幼なじみであって、その身に降りかかる諸問題もまことに「現実的」である。あゆはどこの誰ともわからない人間で、その身に降りかかる問題は「非現実」に他ならない。これは同作の中では佐祐理と舞、という形で縮小再生産されている。エルフェンリートのルーシーとユカ、イリヤの空、UFOの夏イリヤと晶穂とかも同じである。

本題にはいる。長編「涼宮ハルヒの憂鬱」の中では、ハルヒが「非日常への憧れ」を体現しており、これにたいして主人公が「現実へ踏みとどまる」方向のベクトルを働かせている。この微妙な釣り合いが、いつの間にか逆転していることが、長編「涼宮ハルヒの憂鬱」の面白さだと思う。
いつのまにか、主人公はどっぷりと「非現実」のなかにつかっていて、あれだけ「非現実」に憧れていたハルヒはその「常識人っぷり」によって現実の中から出られないままになっている。

しかし、2冊目以降、この「非現実に染まってしまった主人公と、現実に取り残されたハルヒ」という関係が固定化されてしまうと、以前あった微妙なバランスの転回による面白さ、というものは失われてしまう。この点が、「ハルヒ」2冊目以降の残念な所だった。

この「現実と非現実」のバランスを長期に渡って保った例として、たとえば、宮部みゆきの「ブレイブストーリー」がある。作中の主人公「ワタル」は異世界にわたって異世界人たちとの人間関係に浸ってもも、現実世界での問題を忘れることはない。それは、常に「現実」にしか興味のないミツルという対極の存在がいることによる。ミツルは「非現実」のなかにあっても、「非現実」を見ておらず、「現実」の問題を解決するためなら、「非現実」など破壊しても一向に差し支えがないと思っている。その存在によって、「ブレイブストーリー」は最終版まで「現実と非現実」の間の緊張感を保つことに成功している。

あと、古いが、神坂一の「日帰りクエスト」もそう。これは異世界に呼ばれた女子高生もののパロディなのだが、2冊目以降、主人公は異世界で暮らすことと現実に進学することの間で悩み、この悩むこと自体が作品の主要素となっている。

そんなことを考えたわけだ。

*1:や、ちがうなあ、この「非現実的な女」と「現実的な女」って「うる星やつら」からの伝統だもんなあ。まー、あれも「非現実」に突っ走ることにためらわないマンガだったけど。