メンタルヘルスと懺悔と校長先生の話

メンタルヘルスについての講演を聴いたんだが、講師による、相談者とその立ち直りについてのエピソード語り、ちょっといい話集(1時間程度で3エピソード連発)に思わず泣きそうになったんだぜ。ちくしょう。なんだろうなあ。映像や文章だったら泣きはしなかったと思うんだけど、やっぱり口で聴衆の反応を見ながら語られる物語というのと「実話なんだろうな」と思わせるディテールの細かさがキモなんだろうなあ。

この「講師のちょっといい話を聴いて、感動の涙を流して、その後で話者に自分の悩みを相談しにいく」「カウンセラーはとにかく相手の話を聞く」というのは、俺は一度も実物にお目に掛かったことがないが、あの教会でやると噂の『懺悔』を連想するなあ。『神父様のありがたい話』とセットの『懺悔』。カウンセラーという職業がアメリカで成り立って、誰も彼もがカウンセリングに掛かるっていうのは、個人が神様とその代理人に向かって懺悔するっていう宗教的な伝統の上にあるのかなあ。逆に日本では、神仏よりも世間様のつながりが強いため、長屋のご隠居みたいな人、誰か一人に相談するとばーっと噂が伝言ゲームのように広がることがわかりきっているんで、人に自分の悩み事や弱みを語らないようになってるんだろうなあ。

職場のメンタルヘルス系の講演で決まって言われるのは「相手の話はまず黙って聞け。解決案を提示しようと思うな、相手はあなたに聴いて自分の苦しみを理解して欲しいと思っているのであって、苦しみを解決して欲しいと思っているのではない」というような話で、それって男女の考え方の違いでよく出てくる自動車に関する小話みたいだよな。

女『車のエンジンがかからないの…』
男『あらら?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『それは困ったね。どう?ライトは点く?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『…ライトは点く?点かない?』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『そうだね。で、ライトはどうかな?点くかな?』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『あ、えーと、、ライトは点くかな?』
女『何で?』
男『あ、えーと、エンジン掛からないんだよね?バッテリーがあがってるかも知れないから』
女『何の?』
男『え?』
女『ん?』
男『車のバッテリーがあがってるかどうか知りたいから、ライト点けてみてくれないかな?』
女『別にいいけど。でもバッテリーあがってたらライト点かないよね?』
男『いや、だから。それを知りたいからライト点けてみて欲しいんだけど。』
女『もしかしてちょっと怒ってる?』
男『いや別に怒ってはないけど?』
女『怒ってるじゃん。何で怒ってるの?』
男『だから怒ってないです』
女『何か悪いこと言いました?言ってくれれば謝りますけど?』
男『大丈夫だから。怒ってないから。大丈夫、大丈夫だから』
女『何が大丈夫なの?』
男『バッテリーの話だったよね?』
女『車でしょ?』
男『ああそう車の話だった』

ってコピペは、見かけるほとんどの場合女のスイーツ(笑い)さをあざ笑う文脈で使われて居るんだけど、この手の講演とか、コーチングの研修を受けたときにも思ったが、むしろコミュニケーション能力が勝っているのは女の方で、『相手の話を聴き、相手の悩みを受け止めてから、解決案を一緒に検討する』というコミュニケーションの基本的能力が劣っているのは男の方なんじゃないかと思う。男がすぐに女に向かって解決案を提案しようとするのは、自分にとって嫌なことや辛いこと(相談を聴くのは辛い)をすることを避けようとする自己本位的な働きらしい。要するに「憧れというのは理解からもっとも遠い感情だよ」ってことか。違うか。

あと、この手の話を聞くと、カウンセラーの人がうまいのは「ここから、あなたの話を聞く時間帯ですよ」というのをなんらかの形で明言することなのかなあ。聞き手がそういう風に明示しない状態で、自分の悩み事を語るのはいい年こいた大人としてはデンパでしかないからなあ。とか思った。

カウンセラーが講演でする話っていうのは、基本的に「他人の話」であり、「エピソードの強さ」が主体で、語りでそれを補強する演出をしていく。ごくたまに自分の話が混じる程度だ。それに対して、ちょっと前に伝統的な日本の組織で立場あるおじーちゃんが講演したのを聴いたんだが、こっちは基本が「自分の話」になってた気がする。「校長先生の話」なんて、基本的にそうだよな。どんな事件を自分が経験して、それを自分がどう思ったか、自分の経験談とか自分の主観が中心になりながら、なんとなく教訓めいたエピソードが混ざって終わる、そんなような「話者の経験とか立場」が主体になった講演が日本人っぽい講演で、聞き手がそれにのるかどうかは、話術とかよりも、話者のことを聞き手がどのくらい信用しているか、に左右される。んでもって、概ねにして小生意気なガキは校長先生のことをそんなに尊敬していないので、豊富な人生経験から生み出された有り難い話にたいしてさほど感銘を受けることがなく、その割に「エピソードの強さ」がリードするタイプの「泣ける話」に食らいついてしまう、ということがケータイ小説とかの興隆に結びついてしまっているのではないか。

んじゃないか、ということを泣きそうになりながら思ったんだぜ。