くらやみの速さはどれくらい

回帰祭読んだあと、一ヶ月くらいかけてゆっくり読んだ。面白かった。

近未来、自閉症に対する有効な治療法が見つかり、主人公はそうした治療を受けた自閉症患者の一人として、企業に勤め、フェンシングクラブに通い、教会を訪れつつ、孤独に暮らす。本書の大部分は彼の一人称で書かれるため、おそらく実際には彼には奇妙に見える振る舞いがあるのだが(他人が「彼はじっと席に座っているのに非常に努力している」と語る場面がある)、それが描写されない。その世界観は一貫していて、彼の自己像は若干対人関係が苦手で自信がないだけの「普通の」人間のように見える。

「普通」という言葉はこの小説に何度もでてくる。彼は自分が自閉症であることを常に意識していて、自分が「普通」の人間と違うことに何度も思い悩む。おそらく、それは彼が三十年以上生きてきたなかで、何度も言われてきたことなのだろうが、「普通の」人間は社会生活で悩むこともないだろうし、他人に対して理由のない怒りを抱いたり、公共の場でぶしつけな発言をしたりすることもないと固定観念を持っている。作中、彼は「普通」の人から嫉妬され、無礼な言葉をなげかけられ、そのたびに深く思い悩む。なぜなら、彼が教えられた通りなら、「普通」の人は常に理性的で礼儀正しく、理由もなく相手に怒りをぶつけたりはしないはずだからだ。「自閉症」の自分と「普通」の人々の、一体何が違っていて、一体何が同じなのか。どうしたら、自分は社会と協調して生きていくことができるのか。

それはたぶん、人間誰もが持つ疑問だと、『魔人探偵ネウロ』でヤコちゃんも言っている。

そして、「くらやみの早さ」について、彼は時に思いを巡らせる。
光には有限の速さがある。では、光の反対の存在である「暗闇」には、速さがあるのだろうか。もし「暗闇」に速さがないのなら、なぜ光の届かない場所があるのか。なぜ、宇宙には星が満ちあふれているのに、地上から見上げた夜空には暗い所の方が多いのか。
彼が考える「くらやみ」とは単なる「暗いところ」という意味だけではなく、「知恵」や「知識」の欠落のこと、つまり「未知」という意味を含んでいる。「光が射す範囲」とは「既知の領域」であり、その外側には常に「未知の世界」がある。「くらやみ」には深さがあり、暗いくらい所とはつまり「知りようもなく未知の世界」をさしている。

主人公は会社の上司から、自閉症の新治療法を受けるように半ば強制され、時を同じくして「普通」の人たちのなかで次々と事件に巻き込まれていく、「普通」の人と恋をしていく、「普通」の人たちに混ざってフェンシングをし、自分が知らなかった脳や自意識に関する本を読み解いていく。そうして、主人公は変わっていく自分に気づく。自閉症で毎日同じような(主人公は買い出しに行く日もフェンシングをする日も洗濯をする日も、食事をする店も全て決めていて、それを自分から変えようとはしない)生活を続ける自分という存在もずっと同じ自分でなく、日々変わっていく。「既知の領域」も広がっていく。自意識の範囲が広がり、その外側にたしかに存在する未知の世界を切り開いて、変わっていく。

それはたぶん、全ての人間が持つ能力だと、『魔人探偵ネウロ』で、ネウロも言っている。

主人公は自分が変わる選択をし、最後に変わる前の自分の目で世界を見る。その一場面一場面はおそらく変わったあとも変わる前も同じはずなのに、実際に本書で読み通していくと、まるで違ったもののように見える。

二十一世紀版『アルジャーノンに花束を』という帯文句ではあるが、本書は主人公が治療によってかわっていくことではなく(そういう場面もたしかにあるんですが)、自閉症患者のまま、事件があるものの、ごく普通の社会生活のなかでかわっていくことを主題としているように思う。

面白かった。分厚かったけど。