伊里野の冬 <その2>

1.2030年の夏祭り
2.線路の上の二人の女
3.November Rain
4.伊里野の冬 <その1>
5.伊里野の冬 <その2>
6.伊里野の冬 <その3>


髪をばっさりと切った瞬間、伊里野が「ほげー」とうなったので、夏奈は思わず手を止めた。
「どうしたの?」
「どうかした?」
二人は鏡ごしに目を合わせた。
「どっかいたい?」
と、夏奈が聞くと、伊里野はなにか合点がいった表情をして頷き、もう一度「ふにー」とうなって、言った。「はなうた」
「なんか、気分がよかったから、はなうたを歌ったんだけど、あさば、気になった?」
「はな、歌?」
今のは歌というより、絞め殺される前のうなり声みたいだよなあと浅羽夏奈は思ったが、さすがにそうは言わなかった。機嫌を悪くした伊里野真奈は怖い。ついこないだも、大の男を五六人、素手で殴り倒して逃走してきたのだ。ついこの間まで、ただの中学二年生に見えたくせに。
「あさば、つづき、つづき」
といって、伊里野が催促するので、夏奈は気を取り直して散髪の続きに取りかかることにした。伊里野の髪は長いくせに手入れがほとんどされておらず、夏奈はなんとなく気にくわなかったが、そこは口に出さないことにした。そんなよくできた床屋の娘みたいなことを、口に出したくない。
どっちにしろ、ばっさり切るのだし。

「あさばのナイフは、なんでもできるんだね」
「スイスアーミーナイフに切れないものはないのよ」
あっはっはは。と夏奈が笑った瞬間、切りすぎた。が、まあ表情に出さなければ、伊里野は気がつかない。その手の事柄には、イヤになるほど、無頓着なのだ。
伊里野の髪を切ろうと思ったのは、とりあえず変装のつもりだった。今まで気がつかなかったが、あのとき、伊里野に襲いかかってきた男たちがまだ、その辺をうろついているとしたら、伊里野の長い髪はいい目印になる。夏奈は伊里野と一緒に逃げ出すときに受けた弾丸傷がまだ痛むので、外に出るのは伊里野だけなのだ。
それに、こうも風呂に入れない生活が続くと、髪の毛が長いのは鬱陶しい。本人はそう思ってないようだが、夏奈はいやだった。ところが、二人が逃げ込んだのは廃墟となった映画館、おそらくシネコンだったであろう大きな建物で、事務所らしい空き部屋もついてはいたが、髪をきるのに使えそうな鋭利なハサミはなかったので、髪を切る道具はもっとも向いてないものが選ばれた。
「このナイフは、人を殺す以外は何にでも使えるんだから」
「ふなっ」
「鼻歌?」
「鼻に虫が入った」
伊里野はそう言って、夏奈がハサミを使ってる最中なのにまったく気にせず、大きなくしゃみをした。さらに虎刈りがひどくなった。


そして、伊里野は今日も、近所のコンビニまで、買い出しに出かけるのだ。
髪を切った伊里野を見て、珍しく映画館のロビー(だったであろう広場)まで出てきたババアがまるで双子のようだと言って指を指して笑いやがった。薄々そう思っていた夏奈はババアに向かってどなりちらし、伊里野はなぜか嬉しそうな顔をして「ぐなー」とうなった。
鼻歌だった。


あとにババアと夏奈だけが残された。いつものことだが、ババアはうち捨てられたフィルムを漁ってみたり、倉庫の奥をさぐって面白そうな備品がないのかを見て回っていた。杖なしに歩き回れない夏奈はとにかくスプリングの抜けたソファに座って、伊里野の帰りを待つ。
それがいつもの午後の過ごし方だった。

だから、今日、ババアに話しかけたのに、特に意味はない。意味はないのだ。
「わたしと伊里野、これからどうしたらいいのかな?」
「どうにもならないことには、関わらないことだね」
ババアは新しく見つけたフィルムを映写機にかけながら言った。とはいっても、電気がきてないので、スクリーンに投影できるわけでもないし、フィルムも痛むと思うのだが、ババアは心眼でみた気分になるのだ、というような趣旨のことをいって、この作業をやめることはなかった。
「もう、十分に関わってるんだってば」
「じゃあ聞くが、あの子はなんで追いかけられてたんだ?」
「なんか、聞くタイミングを逃したっていうか」
「聞くのが怖かったんだろ?」
図星だった。
伊里野は良い子だと思う。友達だと思う。そして、とても謎の多い子だと思う。だいたい、個人的なことをほとんど話してくれない子だ。行きがかりで、一緒に逃げ出して、今も一緒にこうして暮らしているけど、夏奈は伊里野のことがまだよく分からない。
「伊里野は聞いても教えてくれないよ」
伊里野は二学期に転校してきて、その日のうちに園原中学新聞部に入部していた。そして、気がついたら、一日中一緒にいるようになっていた。……違う。転校初日、新聞部に入る前から、伊里野は夏奈に近寄ってきていた。部室に向かう夏奈の後ろを、一定の距離をおいて無言でついてくる伊里野。ふりかえると、不思議そうに夏奈をみて、立ち止まる伊里野。
そして、入部したあとの会話でも、伊里野は自分のことをまるで話さなかった。市のどこに住んでいるのか、両親はなにをやっているのか、家族構成は、兄弟はいるのか、趣味はなにか、そもそも1学期まではどこにいたのか。

「ロクでもないことには、関わらないことだ。そうして、背中をまるめて、そっぽを向いていればいい。そうすれば、少なくとも嫌な思いはそれ以上せずにすむ。目を閉じて、「ナルニアナルニア」って唱えるのさ。そうすれば、今目の前で起きている出来事なんて、些細なことだと思えるさ」
ババアは言った。
夏奈はこれ以上話すことはないと思った。そして、立ち上がった。
今日は、ゴミ出し当番なのだった。


そのころ、伊里野はコンビニで菓子パンと奮戦していた。
焼きそばパンを一つ手にとって、ひっくり返して、賞味期限をみて、「一月三日」とつぶやいてぽいとと無造作に左側の食パンの段にのせ、次の焼きそばパンをもう一列奥から引っ張り出して、「一月四日」とつぶやいて、「一月三日」の焼きそばパンをもとあった場所に戻すと、今度はカレーパンとあんパンを一個ずつ引っ張り出して、やはり賞味期限を比較する。
前回の醤油そばつゆ味のスパゲティは夏奈の口にはあわなかったらしく、今回の買い出しにあたっては念入りに、繰り返し、「パン」を「賞味期限の一番長いパンから上位十個」と夏奈は要望し、伊里野はそのリクエストに忠実に従っていた。

伊里野が十個のコッペパンをレジまで持って行くのに、三時間を要した。


どんなにエリートが揃ったはずの組織であっても、時と場合によって馬鹿になる人間はいて、往々にして組織の中に一人でも馬鹿が混じっていると、組織全体がばかげた行動を取る。
イリヤを追っていた連中が、「行動に出た」という情報を聞いて男と相棒は、ひとまず無線を切ってから思い思いの罵倒を虚空にむかってした。無線に向かって罵倒をすると、差し障りがあることがある台詞が混じっているための配慮だった。幸いなことに車の中だったので、それを聞いているのは二人だけだった。それから、二人は無言で車を郊外へ向けた。
イリヤと浅羽直之の娘が隠れている映画館の廃屋前まで、一般道を走って一時間半程度。その間、ずっと無言だった。
そして、一時間半後に映画館の前に着いたときには、事態は完全に終わっていた。



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