伊里野の冬 <その3>

1.2030年の夏祭り
2.線路の上の二人の女
3.November Rain
4.伊里野の冬 <その1>
5.伊里野の冬 <その2>
6.伊里野の冬 <その3>

 映画館の廃墟に集結した男たちは、ロビーでうたた寝していたバアサンを作戦開始から三分以内に殴り倒し、縛り上げ、床へと転がした。バアサンは、二人の女の子の片割れ、浅羽夏奈が寝ている部屋のことを、あっという間に喋った。

 突然、男たちが夏奈の部屋になだれ込んでくるまで、夏奈はまったく気がつかなかった。ドアが開いて振り返った瞬間、大きな影が自分にのしかかってきた。目の前が一瞬真っ白になった。
 殴られた。と分かったのは、じんじん、と頬が痛んだからだ。もう一回、殴られた。
 怖かった。体に力が入らない。後ろでに縛られても、何の抵抗もできなかった。普段、何も怖いモノなんてないと思っていた。でも、そうじゃなかった。ばかばかしい。ただの大人の男数人に、夏奈は何もできなかった。
 男たちは何も言わなかった。無言で、夏奈を押さえつけた。男が全部で何人いるのか、夏奈にはまるでわからなかった。抵抗なんでできなかった。

 男たちが夏奈をうつぶせに押さえつけ、首筋を二度三度触る。ついで、上着をめくり挙げ始めた。がくがくがくと奥歯がかみ合わない。ときおり、ガチっと歯が鳴った。自分の体が、まるで自由にならない。伊里野だ。突然そう思った。伊里野だ。こいつらは、あたしじゃなくて、伊里野を探して居るんだ。

 よく似ていると、ババアは言っていた。自分でもそう思った。髪を切った伊里野と、夏奈はよく似ていた。違う、と言いかけた。違う、と言ったら、どうなるのか、男たちの腰に下がっているのは、拳銃のように見えた。自分が違う、伊里野じゃないと言ったら、自分はどうなるのか。殺されるのか。考えがぐるぐる廻った。
 不意に腹を蹴り上げられた。一瞬、口の中を酸っぱい臭いがした。腹に押しつけられたつま先が抜かれたとたん、ゲロがでた。スパゲティが鼻から出た。いやだ、死にたくない。しにたくない。痛いのはイヤだ。抵抗しなければ、殴られないなら、別にどうなったっていい。夏奈の体から力が抜け、男たちは夏奈の服を分解するように脱がせていった。
 その間に、上着はすっかり脱がされ、こんどは仰向けに転がされて、男たちに表と裏を「確認」された。それにつれて、男たちが露骨に自分に興味を失っていくのがわかった。外見がにていても、伊里野は全身義体であり、夏奈はまったく義体化されていない。男が注射針をバックパックから出して、自分の胸に突き立てようとしても、夏奈には何の感想も浮かばなかった。

 そのとき、注射器を持った男が初めて、声を上げた。男の最後の声だった。
 最初は何が起こったのか、分からなかった。男の首に何か棒のようなモノが生えていた。プラスティックの棒に細い白い……腕。腕がぐるっと、動いた。捻った。人間の首にナイフを突き立てて、それを捻ったのだ。ということを夏奈はただ、見ていた。
 スイスアーミーナイフを男の首筋に突き立てたまま、立っているのは伊里野だった。「あさばに!」伊里野は吠えた。「何をした!」ぐりん、と伊里野の瞳孔がトカゲのように獲物を求めて廻った。

 弾かれたように、他の男たちが腰に手をやった。一人は腰に手をもっていった状態のまま、伊里野に頭を殴りとばされた。ひどい音がした。男は壁際まで飛んでいって、倒れた。
 もう一人は、銃を抜いて、伊里野に向けて、一発、二発、撃った。どちらかは、当たったのかもしれない。伊里野はあまり気にしない様子で、さっと男の口の中に手を突っ込んだ。一瞬後、男の全身から力が抜ける。
 何かの冗談のように、伊里野は男の口の中から、ゆっくりと肥後の守を抜き出した。

 つかつか、伊里野はまだローファーを履いていて、足音がえらく場違に反響した。
 そして、無造作に最初に刺されたナイフを男の首から引き抜く。夏奈の視界一面が一瞬真っ赤になった。動脈に空いた穴から、血が吹き出たのだ。男ががくがくと痙攣する。声をださないと、声をだして、伊里野を呼び止めないと。そう思っても、口が動かない。舌がくっついたように動かない。がくがくがく、と男の手が痙攣する。夏奈の前で、男はまだ痙攣していた。
 もう血はあまり出ていなかった。
「い……」
 いだか、「ひ」だか、そんなような音が自分の頭の奥の方からした。
 その掠れた音が、自分の口から出た音とは信じられなかった。
「伊里野、このひと死んじゃう」
 そう言ったと思う。自分では、そう口を動かしたつもりだった。どこからどこまで、音が出たのか分からない。でも、伊里野にはそれで通じたようだった。
「どうして、あさばはそんなことをいうの?」
 なぜなら、伊里野は首を小さくかしげたからだ。自分の声が伊里野に通じた。それが、なぜだかおかしいくらいに嬉しかった。やっと、自分の声を聞いてくれる人がいた。夏奈はもう一度、「この人、死んじゃうよ」と伊里野に言った。
 伊里野は首をかしげた。
「殺すつもりで刺したのに」
 本当に、不思議そうに。
 男は、もう痙攣していなかった。
 夏奈の全身から力が抜けた。床に置くつもりで手を下ろしたら、床についたとたんにずるっと滑った。体勢を崩して、倒れ込むと、伊里野がいつもの通りに心配そうな表情で見ているのが分かった。血がべったりと、夏奈の掌についていた。

 伊里野が頭を殴られて昏倒した男の方へ歩いていくのが、ずいぶんゆっくりに見えた。倒れた男にいっぽ、いっぽ、注意深く、刃をかくして、武器を相手に見せつけないように、伊里野がかわいがっていた猫が、手負いの獲物に近づくときのように。
 まず、抵抗しようとした男の膝を、伊里野の機械の足が踏み抜いた。骨と肉のひしゃげる大きな音がした。次に男の腹を蹴り上げる。二度、三度。四度、五度。伊里野が「殺そうと」蹴っているのが、夏奈にも分かった。

「なんにもされてない!」
 だから夏奈は叫んだ。
「あたしは、なにもされてない! だから!」
 夏奈が何度いっても、伊里野は止めようとはしなかった。夏奈が寄りかかるように倒れ込んだ男の死体から抜け出たときには、胃の中身をばらまきつくした二人目の死体が伊里野の足の先にできあがっていた。

 伊里野は銃を拾い上げ、一挺を自分のスカートの腰に差し、もう一つは夏奈にほおってよこした。夏奈はそれを受け取ることができない。カランカランカランカランと、銃は夏奈の目の前でぐるぐるまわった。
 それを、伊里野は不思議そうに見ていた。

「返すね。あさば」
 伊里野がいつものように、にっこりと笑った。そばつゆ味のスパゲティを食べたときと同じ顔で笑った。血まみれの顔だった。血まみれの手をさしだし、血まみれのプラスティックの固まりを、浅羽夏奈に向かっておずおずと差し出した。
 夏奈のスイスアーミーナイフだった。

「来ないで」
 限界だった。
 夏奈はもう何も見たくなかった。だから、目をふさいで、大声を出して、拒絶した。
「あんたなんて、伊里野じゃない! 伊里野じゃない。伊里野じゃない。あっちへ行って! あっちへ行ってよ!」
 口のなかで、何度も何度も「伊里野じゃない」と繰り返した。怖かった。伊里野が怖かった。これが伊里野なんだと初めて分かった。違うのだ。学校でちょこんと座って弁当を食べていたのも、二人で廃線を歩いたのも、あれは伊里野じゃなかったのだ。
 これが、伊里野なんだ。そう分かっても、夏奈はただ、丸くなって繰り返すしかなかった。伊里野じゃない、伊里野じゃない。伊里野じゃない、伊里野じゃない。
 体が震えた。涙が出た。そこにいるのは、得体の知れないものだった。
 自分がずっと一緒にいたのは、自分が友達だと思っていたのは、こんなばけものだったのだ。伊里野じゃない。

 だが、伊里野はじっと、そこに立っていた。伊里野の顔を見るのが怖かったので、夏奈は顔を上げることができなかった。伊里野の足しか見えない。顔をあげたら、伊里野はどんな顔をしているだろう。いつものように、困った顔をしているのか。それとも、さっき男三人を殺したように、は虫類か、機械のような表情をしているのか。それを見るのが怖かった。
 顔を上げて、伊里野がいつもの顔をしているのが怖かった。「いつも」が、これまでずっと過ごしてきた日々が、あれが全て作り物だと知るのが怖かった。

 そこに足音がしたのは、どのくらいあとのことだろう。
「あさば。ちょっとここにいて」
 その声は、いつもと変わらないように聞こえた。部室で、ちょっと先に行っていて、というときと同じように聞こえた。
「すぐ戻るから」
 そして、伊里野は踵を返した。

 夏奈はそのまま、動くことができなかった。
 二体の死体が転がった部屋で、ガタガタ震えていた夏奈は、伊里野ではなく、黒服の男たちがやってきたとき、心底ほっとした。男たちは手際よく夏奈に注射針をつきつけても、夏奈には抵抗する気力もなかった。
 ゆっくりと意識が薄らいでいくのさえ、心地よかった。


 気がつくと、浅羽夏奈は通学路の途中のバス停で、椅子に座ってうたた寝していた。家出したとき着ていた服をきて、同じ靴を履いていた。靴も服も、家を出たときの状態になっていた。あれだけ汚したり、破けたりしたと思ったのに。
 出発のときに拳銃で撃たれた足は傷一つなくなっていた。馬鹿にされたような感覚だった。二週間も水でしか洗っていなかった髪の毛から、いつも家で使っていたシャンプーの臭いがしたのが、一番違和感があった。あの男たちは、浅羽家で使っているシャンプーの銘柄までおさえていたらしい。ストーカーか。あいつら。
 そこから、家まで、歩いて十分かかった。家では直之がいつも通りに店番をしていた。直之は無言で夏奈を迎え入れ、適当にメシを食わせ、適当に風呂に入れて寝かせた。

 三学期の学校に、伊里野真奈の姿はなかった。
 「転校」したのだ、と教師が一言いった。それでおしまいだった。

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