太閤立志伝5 山内一豊 〜波乱の後半生〜

ゲーム開始

太平の章にて、ゲーム開始。すでに城持ち大名の山内一豊だが、城には妻の千代以外には誰もいない。しかも一豊にはこれといった特技もない。大河ドラマで観たときには、たしか家来に武田鉄矢がいたような気がするが、どこに行ったんだろう。
仕方ないので、諸国を漫遊して家臣をつのりつつ、技能をあげることにする。数ヶ月後、上杉謀反の噂のなか、下間頼廉と下間仲廉、山田長政を家臣とし、茶道と騎馬を習得し、本拠に戻って、いざ主命を……と思ったやさきに徳川家康から上杉討伐の命令がくだる。

関ヶ原

家康に従って出陣すると、小山評定になる。大阪の千代から筆箱が届き、中を開けると三成の書状が……というイベント。これで徳川家康の心証を良くしたが、評定では一番名乗りを福島正則に取られる。おかしい。ここは最初に俺が名乗りでるはずなのに……山内一豊の後半生から小山評定をとったら何が残るんだ。 しかし、関ヶ原で戦う。関ヶ原では大垣城で徳川軍の到着を待つが、徳川秀忠は来ない。しかたなしに、残った面々で関ヶ原の戦いに参戦する。まずは小西行長隊と戦うが、とにかく山内軍は士気が低く、次々と軍団が壊滅していく。しかし、なんとか小西行長本隊の兵力を0にして、かろうじて倒すことができた。次の石田三成隊との戦いではもう900人くらいしか兵力がなく、家康VS三成の戦いを観戦モード。

戦後、土佐一国を与えられる。とにかく、各方面から評判の悪い土佐に入ってからの所行を改めるため、長谷川東伯から習った茶道で長宗我部の家臣団を登用してみる。というか、この期に及んで長宗我部元親が健在だったのに驚いた。関ヶ原にも大阪の陣にも、長宗我部盛親がイベントで出陣しているのだが、この親父はこんなところで何をしているのか。前田利家と違って死亡イベントがないので、ほっておくと通常の病死判定でしか死なないのか。とりあえず、茶席に招いて家臣とする。

大阪の陣

関ヶ原から数ヶ月後、大阪の陣イベントが次々と起こる。豊臣家が寺社復興している。→方広寺事件→片桐且元出奔→大阪で浪人集を集めている→(評定)大阪冬の陣。だったか?。ここまではほぼ観ているだけ。その後、徳川方が大阪の内堀を埋めたことが伝聞され、再度豊臣家からの書状がくる。

ここで、家臣下間頼廉が豊臣に味方するようそそのかしにくる。そして、評定に行くと、徳川家から大阪へ参陣するよう要請がある。腰兵糧は三日間でよい、と書状あり。大阪へ出かけ、家康と面会して、しかる後に戦いが始まる。ここで再度、下間頼廉が「いまがその時だ」と言ってくる。

せっかくなので、俺は豊臣方につくぜ。と手近な伊達政宗隊を蹴散らして、豊臣方につくと、千成瓢箪の馬印があがり、秀頼と本隊が出陣してくる。これと合流して、徳川家康・秀忠隊との血戦に挑む。家康方の士気はさがりまくっており、各個撃破していくと、比較的簡単に互角以上の戦いに持ち込むことができた。というか、このゲームの作者、秀頼出陣イベント好きだな。

徳川家康を撃破すると、家康は逃げ出すが、家康は退却途中で堺の南宗寺前で銃撃を受け、その傷が元で死亡。秀忠が後継者となる。豊臣家は豊臣恩顧の大名家を支配下に治めて復活。豊臣方に味方した当家は豊臣家と同盟関係になり、大納言の位を授かる。以上。まだゲームは続くようだが、この先にはもうイベントはないだろう。たぶん。