天地人

……そして、兼続の死から130年あまりが過ぎた、宝暦10年(1760年)のこと、時は、徳川九代将軍家重公の御代でございます。
日向高鍋藩の藩主秋月種美様の九歳になる次男松三郎様が、米沢の上杉家の跡取りとして、養子に入られました。

近侍のもの「若殿、上杉家は非常に貧しい大名家でございます。今後はご苦労の絶えることがないかと存じます。おかわいそうに」
松三郎(子ども店長)「なぜじゃ。上杉家といえば、謙信公の名で知られる名家ではないか。それが、なぜにそのように貧しいのか」
近侍のもの「それは、謙信公の後で上杉家の政治をろう断した直江兼続というものが、悪いのでございます」
近侍のもの「直江が恐れ多くも、神君家康公に敵対したために、上杉家は120万石から30万石へ石高を減らされて、米沢へ押し込められたのでございます」
近侍のもの「しかも、そのとき直江は愚かにも、上杉家の家臣を全員ひきつれて米沢に入りました。このため、上杉家は四倍の石高に相当する家臣団を抱えておるため、俸給を支払うにも難儀するありさま」
松三郎「……なぜ、直江とやらは、家康公と敵対したり、過大な家臣団を抱えたりしたのだ」
近侍のもの「家康公と敵対したのは『義』のため、家臣団を一人もクビにしなかったのは『愛』のためだと、直江は申しておったそうです」
松三郎「義、と愛。だと?」
近侍のもの「ええ、愚かしいことでございます」
松三郎「面白い」
近侍のもの「はぁ?」
松三郎「会ってみたかったものだ。その、直江兼続とやらと」

こうして、松三郎様は、やがて上杉家の当主として、米沢に入りなさるのですが、それは、また別のお話でございます。


……というような終わり方を妄想していた最終回でしたが、結局は「兼続の語りによる一人総集編」で、最後まで、登場人物がひたすら一方的な話をするだけでストーリーが進むという、悪い意味で天地人っぽい最終回だった。子ども店長も回想場面にはでてきたが、新作シーンの出番はなし。というか、「天地人」の会話シーンって、会話になってないんだよな。それぞれが勝手な自分の思いを、相手のことを考えずにただ喋るだけだし。今回は兼続がお船と熟年登山に行く場面があるのだけれど、兼続が本当に自分勝手で見ていてイライラした。脚本がフェミニズムだと責められているけれど、あれはフェミなのか?

最後に家康が泣くのかと思ったが、微妙な感じだった。泣いてないよな、あれは。家康まで泣いたら「登場人物が泣く話」として「天地人」は綺麗に終わったような気もするが、それはさすがになかった。遠山は前回で死んだのか、今回は出番なし。遠山の最後も「天地人」のストーリーにケリを付けるには必要だと思ったが、そんなことはもちろんなかった。なんだったんだ。遠山康光。見逃したのかもしれないが、家康の死のすぐあとに死んだはずの本多正信も、兼続とそれなりに関わりのある人物だし、比較的扱われ方の多い脇役だったのに最終回に出番はなかった。そして、政宗は最後まで田舎のヤンキーの親玉っぽい感じだった。ここまで兼続と政宗の仲が良さそうな歴史ドラマというのも珍しい。