知的生産の技術

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

1969年の本であり、古典中の古典らしい。

端的に言うと、ノートでは情報の蓄積はできるが整理がきかないため、検索には向いていない。簡単に検索できるカードは素晴らしい。という話で、これは現状電子データにさえしておけば検索が効くので、すでに風化した話のような気がする。情報は縦にファイリングするのがいいとか、タイプライターを導入することの是非、コピーの重要性についても同様。この辺は時代が解決したと思うので、古文書を読んでる気分になる。

しかし、大きく書くと、江戸時代とか明治時代には知的生産というか、文章を書いて人に読ませるとか、個性豊かな文章を書くというのは一部の天才ができればいいことだったのだが、いまではその辺の会社員が報告書やら企画書で、それをやらねばならないことになっておいるにも関わらず、そのための体系だった方法論がなく、皆が見よう見まねでやっているのが問題である。という本であり、これは現代にも通用するテーマであると思う。というか、その辺はいまだに解決されてないと思う。

本文中で面白かった点。

  • 手紙における形式の重要性。手紙にはかつて形式があり、さほど意図がなくても形式さえ知っていればそれなりの手紙を書くことができた。しかし、現代(1969年)の内容重視、形式軽視の教育によって、手紙は自由に思うことを書け、と言われるようになり、意図の通じる手紙を書ける人間の数が一気に減少した。
  • 文章にすること。頭のなかで考えている間は無限の可能性や、どこまでも続く発送の連鎖に酔いしれることができるが、それをちゃんと文章にしてみると、自分の考えていたことはたかだかこれだけの、貧相な内容だったのだ、ということが分かって幻滅する。ただし、それでも文章にしなければならない。一人の人間は常に物事を忘れていくものだ。
  • メモを書くのは、忘れるためである。ゆえに、メモはそれだけで意味が通じる内容になっていなければならない。そのときの本人にとって分かる内容では不十分であって、後から読んだときに本人でも分からない可能性の方が高い。
  • 知的生産の技術といって、メモや資料の整理を行うのは、効率化のために行うのではない。それらは、考え事のなかに発生する粗雑な割り込みを減らして、問題に対処するにあたって心静かに行えるようにすることが目的である。整理をしたからといって、それで効率が良くなるかどうかは別問題である。
  • 読書には、消費的な読書と生産的な読書がある。内容の面白さを求めて行うのは消費的な読書であり、新しい発想を得るために本を読むことが生産的な読書である。
  • 文系の学者の各論文には、引用が多いが、引用が多くなればなるほど、作者によって書かれた新しい情報の量は減る。また、引用を多く書く学者は、文献を読む際にもどこを引用しようかと思って読むので、内容がちゃんと読めていないことが多い。あれこれ引用してあることを誇るのではなく、自分が新しく考えたことを誇るべきである。