雑誌の釣り広告に釣られてみた

このエントリは一行目から最後の行まで適当な嘘っぱちか、単なる思いつきです。

こないだ会社帰りにふと雑誌のつり広告をみていて、「ゆとり」世代について考えてみたところ、つじつまのあったアイデアが浮かんだんで、書いてみようと思うんだ。というか、さっき最後の段落を書いている途中でブラウザを更新しちまって、全部一回消えたんだ。泣きそうだ。

「ゆとり」と「かしこさ」

日本では、知識の量の多寡が「かしこさ」のパラメータと直結しているものと考えられているように思う。これは博覧強記なことが天才の証だった昔もそうだし、今でもテレビを付けてみれば、クイズ番組でいろんな雑学を披露している人は賢く、どう考えても常識だろうという知識を知らない人はバカっぽく見える。学校の試験だって、いかに多くの物事を暗記したかが重要で、覚えたことが少ないなら点数だってとれない。

ゆとり世代は教科書が薄くてモノを知らず、知識の量が少ないから賢くないのだ」という言説はこの立場から発せられているように思う。

しかし、考えるまでもなく、たとえば「「島」のつく県が日本にいくつあるか」という問題と「かしこい」かどうかとの間には直接的な関係はない。「かしこさ」とは知恵があるかどうか、という問題だ。知恵とは何か、といえば、ある物事を整理して認識すること、それを課題としてどのように対処していくべきなのか考える能力があること、である。

なんでも知っているガリ勉君や、物知りおじーちゃんがかしこく見えるのは、彼らが「何でも知っている」からではない。彼らは「問題のパターンを整理して記憶しているため」「課題に対してどの解決案をとればいいのか」知っているために、賢く見えるのだ。

ゆとり世代」だから知恵がないという話は聞いたことがないし、おそらく「ゆとり」とは「かしこさ」とは異なる次元の問題なのではないかと思う。では、「ゆとり」とは何だろう。

ゆとり世代」と「世代背景」

私はもうじき30歳になる。私の小学校のころは80年代で、バブルの頃だった。家の周りの路は数年でガリガリアスファルトで舗装されていき、マンションがバンバンと建ち、東京にはドンドンと高層ビルが建った。

子どもたちはキャプテン翼を観てキン肉マンを観て、ドラゴンボールを観ていた。「天下一武道会」方式の最盛期だった。いわゆる3高の時代であり、マスコミの時代であり、多くの人が一つの尺度のもとで、ナンバーワンになろうということを目指す時代だった。たとえナンバーワンになれなかったとしても、上を目指すこと、世間に評価されることには価値があり、敬意を表されるべきだ、という認識を、この時代までに物心がついた世代は持っている。

しかし、バブルが崩壊して、失われた十年がやってくると、これまでの価値観はけちょんけちょんに非難された。「人に与えられた尺度には価値がない」「個性が大切」「居場所やゴールは自分で作るもの」「あなたらしく」という大合唱とともに、「セカイ系」の時代がやってきた。

「大勢の人がナンバーワンになることを目指す」「天下一武道会」方式から、「自分とその他=セカイ」という二分された世界観への転換が起きた。目的は「ナンバーワンを目指す」ことから、「セカイの中で自分の在処を探す」ことになった。他者とのコミュニケーションは「共通の価値観をもとに拳と拳で通じあう」ことから「セカイとの微妙な関係性をかろうじて維持する」ものになった。

セカイ系」という言葉もさすがに廃れてきたが、この傾向はドンドンと進んでいて、十年前には「自分とセカイ」は5:5くらいの割合だったものの、現在では「自分とセカイ」は8:2くらいになっているような気がする。「自分」が肥大化していく状態が当たり前になったせいで、わざわざ「セカイ系」と言わなくなったのだ。なんつーか「モンスターなんとか(not in ハンター)」というのも「セカイ系」の思考様式が広がった結果のような気がする。閑話休題

もちろん、我々も「自分の居場所を探す」ことや「世界との関係を維持する」ことは重要だと思っている。しかし、その根っこのところで「ナンバーワンになることを目指す」ことに対して価値を感じている。

しかし、物心ついたとき(小学校低学年)から、バブル崩壊以降の「セカイ系」大合唱世界観にどっぷりつかった世代は、「ナンバーワンになることを目指す」ことどころか、「(他者が決めた尺度での)ナンバーワンであること」自体に対して価値を認めていない。

「答えはいつも私の胸に」あると信じ、「オンリーワンになればいい」と心の底から信じている世代。この世代こそが「ゆとり」世代であり、その上の世代が当然の大前提としている「ナンバーワンを目指すこと」に対する価値を認めないという差違が、現在ギャップとして顕在化してきているのではないか、と思う。

天下一武道会」と「SOS団」

こうして、多様性と個性を心の底から信じる「ゆとり」世代が誕生した。しかし、昨今思うのは、この世代の持つ「居場所のなさ」感である。なにか事件があるたびに「居場所がなく」感じていると青少年は語り、大人たちは「これだからゆとりは」「昔の教育がよかった」と繰り返す。

しかし、「ゆとり世代」の特徴が「知識量」ではなく、「自分の居場所は自分で探す」という方向性自体にあるのだとしたら、この半端ない「居場所のなさ」感も分からないではない。

「自分の尺度でオンリーワンになる」ことは、確かにすばらしい方向性だと私は思うが、実際にはそれを実現することは、「他人の尺度でナンバーワンを目指す」ことよりもずっと困難である。

例えば天下一武道会で一位になれるのは悟空だけだとしても、天下一武道会出場を目指すことは俺にだってできそうだ。しかし「SOS団」を作ることができるのは涼宮ハルヒだけであり、「SOS団」を作りたくても作れない「ゆとり世代」に残る居場所のなさ感は尋常ではないと思う。
悟空になれなくてもヤムチャにはなれるかもしれない(アムロになれなくてもハヤトやカイにはなれるかもしれない)が、ハルヒになれなかったらただの女子生徒Aでしかない(キラになれなかったらシンになるしかない)のだ。

「ナンバーワン」になることは確かに困難だが、「オンリーワン」になることはもっとずっと困難だ。そして、「ナンバーワン」を目指していけば「ナンバーツー」か「ナンバーテン」か「ナンバーハンドレット」か知らないが、とにかく居場所を持つことができるのに対して、「オンリーワン」になれなかった場合、そこには何も残らない。