「天気の子」感想というか所感

天気の子、見てきました。

超よかったです。ネタバレを踏まないように早めに見に来て良かった。

そして、これまで新海誠作品を見てきて本当に良かった。

 

完全に「新海誠の男」目線になってる……そうだよ、お前はそれでいいんだよ……カルピス氷で割ってくれてありがとうな。昔はいつも原液だったもんな……「君の名は。」の時は書いてあるとおりに水で割ってくれたけど、あれはちょっと薄かったからな。

 

大前提は書いたので、細いところに入っていきまますが、本作はお話の展開とキャラクターの感情の移り変わり、サブストーリーの展開がぶつ切りで唐突な点があると思いました。

よくできた「流れるような」脚本なら、ストーリーが進んでいくことと、キャラクターの気持ちが変わっていくことを同期をとって進めていくんだけども、どう新海誠はそういうのがあまり上手くなくって、ストーリーがある一点を越えると急にキャラクターの感情が切り替わっていて、過程があまり描写されていない。 

 

(以下ネタバレが多いです)


君の名は。」で瀧くんが奥寺先輩から「別の子が好きでしょ」って言われるまで、どう考えても奥寺先輩の方が三葉より好きだっただろ、お前、みたいな感じ。 

 

(以下ネタバレが多いです)


今回、大きく 
・主人公上京、ホームレスになる。 
・陽菜と出会う。 
・おっさんの家に転がり込んでライター助手になる。 
・陽菜を助ける。 
・お天気屋を始める。 
・お天気屋をやめる。 
・追われる身になる。 
・ラブホに転がり込む 
・警察から逃げる 
・代々木の廃ビルになぜかみんな集まる 
・一件落着 
・後日談 

みたいな話の流れなんだけども、重要な小道具として存在する拳銃の扱いとか、ライター助手になったこっとか、お天気屋をやったことが、後段に繋がっていないことが多い。 


おっさんが転がり込んできた主人公の荷物から拳銃を見つけてしまうとかさあ。そうでないと警察が踏み込んできた時におっさんが主人公を追い出す理由が非常に弱くて、単に薄情な人間だから、みたいなおっさんの弱さを描くエピソードになってるやん。 

とか、ライター業をしていたからラブホに転がり込む時に役に立ったとか、あの前半での調査で主人公に天気の巫女と人柱の話がインプットされている、ってなってなくて、一応聞いてるけどその後すっかり忘れてるから、いざ人柱になって云々が「主人公が、ヒロインから、他の人から取材で聞いた」という又聞きの話になっちゃうのが残念。 

このあたり、「君の名は。」のときは主人公の入れ替わりを使うことで、当事者であるおばあちゃんから主人公本人が根底設定を聞く、ということで解決できていて、とてもスマートでした。

一生懸命にお天気屋で活動していて、助けた相手がいた、というのが特にストーリーで役立ってない。 

あそこで助けた人、例えばバザー主催のおじいさんが警察から追われてるときに「私の子供です」みたいなことを言って助けてくれる、とか、六本木ヒルズのサラリーマンの人が「こっそりビルに匿ってくれる」みたいな話はあって然るべきじゃないすか。 

社会からのリアクションをだすことで、最初のホームレスのときと同じような場面でも、これまで東京で生活していたことで変わったんだ、という話になるわけじゃないですか。

 

君の名は。」だと、三葉が父親から認められる場面がありますよね。ああいう、主人公が映画の内部でおこなった経験や成長によって、それを作中の人間から認められる、というのは、「天気の子」だと本当になくって、大人たちは終始子供達の話を内容どころか、重要性も理解できてない。として書かれてしまっている。

 

それに、「大勢が助けているから」子供が警察から逃げ回れる、ならなんとか納得感あるけど、本当に警察は個人のとっさの動きだけで翻弄されてるので、ひたすら間抜けになっちゃう。あの「何回似たようなシチュエーションで逃げられるんだよ!」っていう展開は本当にびっくりしました。もうちょっとなんかあるだろう。ふつう。


その辺、つまり「主人公たちが世界に対して活動をしたことで、世界からなんらかのリアクションがある」という展開がないから「世界なんてどうなってもいいからヒロインを助けたい」というセカイ系の話になっちゃうんやねんな! 

 

基本的にやっぱり、新海誠という人は、人間関係の不安定さや脆さを大前提にしていて、だから「社会で広がる人間の絆」みたいな話は全く信じてないんだなあ。今回、珍しくお天気屋をやって、主人公たちの活動が社会に対して広く「いいことをした」話になっていたと思うのです。

だから例えば、似たようなストーリーのものとしてゲーム「ペルソナ5」がありますが、あれも「主人公たちが良かれと思って社会に関与する仕事をする」「それが社会からしっぺ返しを食らって落ち込む」という展開ですが、ペルソナ5では主人公たちは社会からしっぺ返しを食らった時に大いに落ち込みます。

そして、社会から再度認知されていくことで力を取り戻していく、というストーリーですが、「天気の子」では主人公たちは最初から社会を頼りにしてないので、社会から「もう一度晴れて欲しい」というような要望があがっていても、それは耳に届いてませんし、ほとんど気にもかけていません。

子供達は社会からの支援するよ、という声に耳をかしませんし、社会に助けて欲しいという発言をしたりもしません。自分は社会に対して何らかの仕事をして、例えばお礼や報酬をもらったりするかもしれないし、何か社会をそれによって変えることがあるかもしれない。けれども、個人は社会を信じてはいない。個人が困ったときに社会は「何の関心も払ってくれないし、何も助けてはくれない」そういう観念がキャラクターたちの行動原理の根底にあります。だから、自分で、何かをしなくちゃいけない。

(登場人物が他人を説得しないのが本作の特徴だと思います。というか、基本的に新海誠作品では人間は他人を説得できません。「君の名は。」の三葉の父の下りが特例だと思います。あれも、まあ他人というか家族関係において、父が自分自身を見返した、という流れでもイベントだし)

小さな関係性ということで、かろうじて家族、というのは描けるのだけども、複数の家族が合わさって大家族になる、という話になるともう無理。そんな絆の存在は信じられないのです。だから、主人公はおっさんの家族であることをやめて、陽奈の家族になることを決めます。

本当なら、二つの家族が主人公によって統合されて、一つの集まりとして動く、という段取りにできたら、映画終わった後の「えっ、このあいだ三年間、姉弟どうやって生計を立ててきたの」みたいな感情も生まれなかったんだろうけど、そういうのは無理なのです。

 

個人間の関係は不安定で、だからこそ永続性を夢見る存在としてあるけれども、多数の人間同士の関係性って共同幻想でしかないよね。そういう「俺とヒロインはいるけど、ぶっちゃけ世界は俺たちとは関係ない」というのは新海誠イズムなので、まあ、この味はいいね、と個人的には思います。面白かったです。