太閤立志伝5 芳賀高定の野望

乱麻の章・1554年

芳賀高定、という男が居た。
その生没年には異説が多い。ここでは1554年の時点で27歳だったことにする。
1554年とは、どのような時代であったか。京都では足利義輝が将軍として居たが、すでにその威信は大きく損なわれており、実際に足利幕府の権威が及ぶ世界は、山城の国の一部になっていた。
甲斐の武田、越後の長尾、相模の北条、駿河の今川、西国に毛利、細川、尼子、九州に大友、奥羽に伊達、各地に中小の戦国大名が割拠していたが、いずれも猫の額のような領土を取り合うばかりで、天下統一を目指すような「非現実的な」目標は持っていなかった。
宇都宮家は下野一国を支配していたが、北条、長尾、武田といった大大名に囲まれた中規模の大名家でった。そして、芳賀高定は宇都宮家の家老であり、そのことが彼の生き方を定めていた。

家老といっても、宇都宮家は田舎大名である。他に名のある家臣は誰一人としておらず、主君である宇都宮広綱(11歳)と高定のみが宇都宮家を支えるメンバーである。田舎田舎と書いたが、まったくもって関東北部はこの時代、典型的な田舎であった。つまり人口が極端に少なかった。近隣の佐竹、結城、蘆名、長野といった他の大名家も家臣の数は1人〜2人と、似たようなものだ。未だ開けぬ板東では、どの街にも浪人は居らず、この地で整備された家臣団を作り上げるなど夢のようなことだった。

このとき、関東で唯一巨大な勢力と優秀な家臣団を持っているのは、北条家のみであった。北条家は背後に今川家・武田家と三国同盟を結び、万全の体制で関東を調略することができた。芳賀高定の使命は北条家の北上と関東統一を妨げ、宇都宮家を維持することだった。そして、それは困難なことに思えた。

日輪の章・1564年

十年が経った。
芳賀高定は37歳になっており、上総の国主となっていた。むろん、宇都宮広綱に命じられてのことである。十年に及ぶ戦いの末、北条家は滅亡し、その家臣団の多くは宇都宮家の家臣となった。
芳賀高定の功績は三点あり、一つは宇都宮家を守るべく、北に伊達、東に佐竹、西に今川、南に里見という諸大名との同盟体制を組んだことである。もう一つは、宇都宮家に家臣団を作り上げたことである。今川家に滅ぼされた織田家の家臣団と武田家に滅ぼされた上杉家の家臣団が二大勢力ではあったが、いずれも若輩のものたちであり、芳賀高定は唯一の家老としてこの二大勢力を統制することができた。
最後の一点は、戦場において、武田家と合戦を行い、四度に渡って勝利したことにある。常に多くのギセイを負いながらも、武田信玄を結城城、館林城で破ったことによって、宇都宮家瓦解の危機を救ったことにある。
かくて、宇都宮家は関東を納める天下第三の大名家としてあり、武田家の侵攻を撃退し続けていた。